『弓』
キム・ギドク (監督)
ハン・ヨルム (主演女優)
チョン・ソンファン (主演男優)
ソ・ジソク (男優)
2005年制作
2006年日本公開
☆☆☆☆☆

『
サマリア』(2004年 第10作)、『
うつせみ』(2004年 第11作)、『
絶対の愛』(2006年 第13作)の鬼才キム・ギドクによる監督第12作。この監督の映画を観るのは、まだこれでようやく3本目。最初に観た2作品(『
サマリア』『
絶対の愛』)で、「痛々しい映画を撮る人」という印象がかたまりつつあったところで本作を観た。
監督自身に言わせれば、彼のどんな作品も「人間の愛のかたち」を描こうとしたものらしいが、僕にはまだ彼の言わんとするところがよくわからない。僕なりの言葉で表現してみると、この人は、身体的な痛みをストレートに描写することによって心の痛みを表現し、またそのことによって人生そのものを描こうとしている人、ということになる。本作もそのつもりで観たら、少々肩透かしを喰らった。

海に浮かぶ古びた船、2人きりで暮らす老人と16歳の少女。10年前に老人に拾われて以来、少女は1度も陸にあがったことがないという…。この舞台設定はいかにもギドク・ワールド、どんな猟奇的な話が展開されるのだろうと身構えていたのだけど、案外オーソドックスな話だった。実はこの話、「一人娘を嫁にやる」という話でしかない。それだけのことなのだ。
船の中の暮らしには10年間続いた均衡がある。ところが、釣客として若い男が訪れたことをきっかけに、その均衡は徐々に崩れていく。その過程を描いた(痛々しい)話なんだろうなと思って観ていたのだが、描かれていたのは言わば「娘を嫁に出す父親の心の揺れ」。これをここ20〜25年くらいの日本映画なら「釣りバカ日誌」テイストのハートウォーミングコメディに仕立てちゃうんだろうが、さすがキム・ギドク、照れ笑い抜きで、父の内面の葛藤を真っ正面から描いている。

この監督の映画が何故評価されているのか(彼の作品はカンヌだのベネチアだのの常連である)、また、どうして僕がこの監督の撮る映画に感銘を受けてしまうのかというと、極めて特殊な状況での出来事を通して、極めて普遍的なテーマを描いているからだろうと思う。人間にとって普遍的なテーマというのはそう多くはない。生き別れと再会、生まれ変わり、とりかえばや、予定された別れ、家族愛、肉親殺し、三角関係、禁じられた愛、驕り、焦り、妬み、喪失、堕落、希望、等々。どんなに奇異な舞台を設定しても、そこでの出来事を通して描かれているのは、かれこれここ4000年くらいの間に繰り返し語られてきた普遍的なテーマ。
オリジナルタイトルも「
활(ファr)」=「弓」(英題「The Bow」)。老人が少女を守ってきたこの弓は男根の象徴的表現にもなっていて、そのつもりで最初から観ると、少女が弓で遊んだり、老人の放った矢を折ってしまったり、というシーンが象徴的に用いられていることがよくわかる。老人は毎夜この弓を楽器(鼓弓)として切ない調べを奏でる。セリフがほとんどない映画だけに、この鼓弓の調べが重要な要素になっている。

『
絶対の愛』を映画館で観たとき、あまり映像が綺麗じゃないと感じたのだけど(2008年01月29日追記:これはその映画館のスクリーンの特徴だったのだと思う)、本作の映像は美しいと思う(ただし、今回は映画館ではなく、レンタルDVDを17インチのCRTモニタで観た)。老人と少女は何とセリフなし! 一言も言葉を発しないで、顔と身体の表情だけで演じているのが見事。特に若いハン・ヨルムは随分頑張ったと思う。彼女、前作『
サマリア』(本名の「ソ・ミンジョン」名義で出演)に続いてまたしても入浴シーンがあり、恥ずかしかっただろうなぁ(韓流映画には、入浴シーンだとかベッドシーンだとか、女性の裸が登場することはあまりない)。韓国語の全然わからない人も、1度「オリジナル音声・日本語字幕なし」で観てみることをオススメする。それでも、登場人物の心の動きはわかるはず。それが「人間にとって普遍的」ということ。
今日の一言韓国語は「
활」=「弓」。「
활」の一部(「
ㄹ」)が漢字の「弓」と似ているのは偶然だが、韓国版のポスターではこれを利用し、ハングルと漢字を組み合わせて映画のタイトルを図案化している。

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