2016/10/3

FILE3 絶望の中に見えた光  先輩 K先生の映画学ガイド


担当者 国語科 小柳優斗


『エクソシスト』――ご存知ですか? 1973年、ウィリアム・ピーター・ブラッディ原作の同名小説を、ウィリアム・フリードキンが監督して製作されたこの『エクソシスト』は、ホラー映画の頂点として、今も高く評価されています。今、USJでもハロウィンのアトラクションの一つになっていますね。担当者は、誰も一緒に行ってくれる人がいないので、1人で行きました。楽しかったです。

 今回のガイドでは、一本の映画を取り上げて、その魅力について迫っていく方法をとります。40数年が過ぎてもなお、凄まじいパワーで観客を圧倒する『エクソシスト』。むろん、キリスト教的な観点、ホラー映画史的な観点など、様々な観点からの切込みが可能でしょう。このガイドでは、この『エクソシスト』の物語的な観点から切り込んで、映画の奥にある豊饒なストーリー世界に、思いをはせてみたいと思います。

 この恐怖を超えた映画は、いまだ存在しない――ところがこの『エクソシスト』、恐怖・絶望の物語であると同時に、その中で見える、小さな光の物語でもありました。

※本文は『エクソシスト』の物語のクライマックスにまで踏み込みます。未見の場合はご注意を。



ガイド4「絶望の中に見えた光――『エクソシスト』が描き出すもの」

 1973年に公開されるや否や、一大センセーションを巻き起こした『エクソシスト』。その影響は、すさまじいものであった。どれくらいすさまじいかというと、まずそれまでに殆ど知られていなかった「悪魔祓い師」を表す「エクソシスト」という言葉を、世間にがっちり定着させてしまうくらい影響力があった。『ゴッドファーザー』が「ファミリー」という言葉の意味を変えてしまったのと同じだ。

 また「悪魔との対決」を描いた映画としても、とにかくショッキングなものであった。この映画に描かれるのは、ディズニーの『ファンタジア』に描かれる、巨大な角と翼をもつ鬼のごとき、どこかファンタジックなものではない。実はそれ以前から、ステレオタイプな悪魔を描くことを拒む作品が、増えていた。『エクソシスト』の5年前には『ローズマリーの赤ちゃん』があった。『エクソシスト』の3年後には『オーメン』が銀幕を震撼させた。ステレオタイプから解き放たれた悪魔は、より恐ろしく、よりリアルであった。『エクソシスト』は、「悪魔にとり憑かれるこのと恐怖」を、恐ろしいほど精緻なタッチで、淡々と描いて見せた。また、原作者のウィリアム・ピーター・ブラッディが、「これは実話である」ということを頻りに強調したため、よりいっそうのリアリズムを得て、観客を捉えて離さなかった。(実は違ったらしいけど)「エクソシズム」関連の事件が実際に起こり、それはこの映画の持つ圧倒的なパワーの証でもあった。テレビ伝道師によって「悪魔がフィルムを作っている」と、大いに喧伝されたのも肯ける話だ。

 ストーリー自体は、ブラッディの原作『エクソシスト』に沿っている。つい最近、この原作を読み返す機会に恵まれた。原作を読むとわかるが、映画『エクソシスト』は驚くほど原作に忠実に作ってある。もちろん映画の時間制約上の問題で、やむを得ずカットしたシーンはいくつかあるが、全体の流れは原作から逸脱せず、ここぞという見せ場のほとんども、原作の中にあるものだ。2000年のディレクターズカット版で復活したスパイダーウォークすら、その原点を思わせる描写が、ちゃんと原作の中にある。『WILLIAM PETER BLATTY'S EXORCIST』とあることからも、これはやはり、原作者ブラッディの『エクソシスト』であり、フリードキン監督はそれを天才的手腕で見事に映像化したということになる。

 『エクソシスト』の物語は、単純なようで深い。ハイコンセプトにすると「悪魔にとり憑かれた少女を悪魔祓い師が助けようとする話」である。だがそこにいくつもの要素がからんでくる。

 たとえば悪魔にとり憑かれる少女リーガンを取り巻く環境について。母親のクリス・マクニールは父親と離婚している。リーガンが誕生日の日に、お祝いのメッセージをかけてこない父親に、クリスが怒りをぶつけるシーンがある。電話の交換手に怒鳴り散らすクリスの声を聞きながら、沈んだ顔で部屋に戻るリーガンのショットがある。その後に「怪異」が始まるところから見ても、この1シーンは決して看過できない多くの意味を持っている。

 リーガンの様子は、はじめはさほど変わらないように見える。口が悪くなったとか、ぼんやりしているとか……少なくとも、悪魔が取り憑いているようには見えない。そして周囲は、あくまでも科学的・医学的見地から、症状を見極めようとする。様々な薬を試み、様々な検査を行って――この医学的処方が、リーガンの変貌ぶりに拍車がかかるのと並行して、痛々しい、ゾッとするようなものになってゆくのは一考の価値がある。

 『エクソシスト』は随所に恐怖を感じる場面が用意されているが、多くの人が1番怖かったと推すシーンは以外にも悪魔との闘争の部分でもなければ、スパイダーウォークのシーンでもなく、実はリーガンを決さしている病院のシーンなのだそうだ。病院での検査のシーンは何度か出てくるが、そのどれもが翳のあるトーンで重苦しく、リーガンに注射を刺したり電極を付けたり、様々な機械の前に晒したりする様が、まるで中世の拷問のように見えるという。医師たちには、リーガンを害そうという気などまったくない。それどころか逆に、彼女の病魔の原因を探ろうと必死なのである。しかし、彼らの処置は、リーガンに苦痛を与え、彼女を消耗させ、その容貌を変えてしまう。そして何よりも怖いのが、そうした苦痛を味わったというにもかかわらず、それらの診断が一切無駄に終わってしまうという、救いようのない現実である。


 この映画では、悪魔に狙われたマクニール母子が孤立してゆく様が丁寧に描かれる。そもそも、母のクリス・マクニールは無信仰の立場であり、それはこの物語全体のスタンスと共通する。故に医学によってまずは問題を解決しようとする。しかし、それがまったく意味をなさない。側頭葉に異常があると医師は診断し、リーガンに拷問のような検査を何度も繰り返し、精神科への受診を勧め、最後には入院を勧める。何がリーガンをそうさせるのか、真実は全く明らかになることはなく、母親クリス自身のヒステリー気味なコミュニケーションとも相まって、この母子はどんどん孤立を深めることになる。母親に残された道は、すっかり変貌してしまった少女を家に連れて帰り、ベッドに縛り付けておくことであった。マクニール母子が病院から帰宅する時、リーガンは使用人のカールに抱えられて車を降りる。その表情は、大いに隠されて見えない。が、その傍らを歩くクリスの表情が、一切の絶望を物語っている。もはや望みは絶たれた。自分を救ってくれるものは何もなく、隣にいるのは、自分の娘とは到底思えない、変わり果てた何か……。ここに『エクソシスト』が描く究極の絶望を観る。

 医学が匙を投げた後、救いの手を差し伸べたのが「エクソシズム」であった。だが、すぐにすんなり事が運んだわけではない。クリスが頼ったデミアン・カラス神父は、神父でありながら精神科医でもあり、どちらかというと、これまでマクニール母子がさんざん苦しんでその甲斐なかった側から物事を観る人間だったからである。加えて、神父自身も、自分の母を救えなかった罪悪感に悩み、信仰そのものに疑念を抱いていた。

『エクソシスト』が素晴らしいのは、マクニール夫妻の恐怖の物語と、カラス神父の苦悩の物語を同時並行させて語り、最後にそれを繋げることである。カラス神父は、初め悪魔の存在に疑念を抱きながらも、信じざるを得ない状況をいくつも目の当たりにして、ついに教会に悪魔祓いの許可を求める。そうして訪れるのが、最後の登場人物であるランカスター・メリン神父である。

 二人の神父による悪魔祓いが始まる。その凄絶さは、やはり実際にご覧になっていただくほうがよい。ここで特筆したいのは、カラス神父の立ち位置である。この悪魔祓いによって補佐を務めるはずだった彼は、悪魔祓いが佳境に近づくにつれてボロを見せ始める。もともと、悪魔の存在には否定的だったからか、目の前で次々と起こる超自然的現象に言葉を失い、「救えなかった母親」を悪魔になじられて心の平穏をかき乱され、ついにはメリン神父から退出を命ぜられる始末……。このまま終わってしまうのかと、観客の心も絶望に打ちひしがれる。

 しかし、絶望の中でこそ、見えた光があった。

 退出を命ぜられたカラス神父は、一階に降りて項垂れている。そこへ、クリスが声をかける。

 クリスは問う。
 「あの子は――死ぬのですか」



 少し躊躇った後、カラス神父はクリスの目をまっすぐ見て、答える。
 「――いいえ」

 カラス神父は立ち上がり、ゆっくりと階段を上がってゆく。それを、クリスは物言わず見つめている……。

 この瞬間のカラス神父の答え、そしてその表情に浮かんだ確固たるものに、クリスは――観客は残された希望の光を見つける。それは絶望の只中にあって、ようやく見出した光である。誰かを守りたいと思った時に、心を震わせる活力である。一切の迷いを捨て、己の使命感に殉ずる者のみが見せる強さである。カラス神父は階段を上り、ゆっくりと部屋の中に入ってゆく。


 悪魔との闘争がいかにして結末を迎えるかについては、野暮ったいのでここには書かない。以上が、ホラー映画の金字塔『エクソシスト』に対して、担当者が抱く所感である。『エクソシスト』は絶望を描く。どこにも逃げ道はなく、どこにもすがりようのない究極の絶望を描く。そして、その中にあって唯一、輝き続ける最後の希望を見せる。それは、神を信じるか否かという信仰上の光ではない。カラスの目に宿ったのは、今目の前にいる少女を必ず救うという純然たる決意であり闘志である。助けたいという思い――それこそがである。

 


 2000年のディレクターズカットを観てみると、カラス・メリン両神父に限らず、少女リーガンの解放と回復を願っていた者が陰ながらいたということに気付かされて、思わず心が温かくなる。恐怖を描くだけならば、あのエンディングは必要なかった。『エクソシスト』はホラー描写・恐怖演出と同じくらいの凄まじさで、絶望と光のドラマを描いて見せた。ゆえにこそ『エクソシスト』はホラー映画の金字塔として、今後も長く語りつがれるのではないだろうか。



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