2016/10/15

FILE4 再起動(リブート) そのU  先輩 K先生の映画学ガイド

担当者 国語科 小柳優斗

ガイド5「再起動(リブート)−−二つの作品群が描き出す、ヒーローの物語」

※前回を未読の方は、まずそちらからご覧になることをお勧めします。

 
 さて、いよいよ2002年公開の『スパイダーマン』と、2012年公開の『アメイジング・スパイダーマン』の大きな異同を見ていこう。両者がはっきりと分かれるのは、主人公ピーター・パーカーが己の力を見直すきっかけとなる、ベンおじさんの死のシーンからである。

 ベンおじさんの死を知った後のピーターの行動に注目したい。2002年版のサム・ライミ版では、前回でもあったように格闘技に出場して金を稼ごうとした、その帰宅時にベンおじさんの死に直面する。犯人は分かっており、ピーターはプロレスで付けていたマスクを被って犯人を追いつめる。ベンおじさんを殺した犯人は、ここでピーターの手によって処決され、以後物語を引っ張る要因とはならない。(Vでそれが覆ることになるが。少なくとも、Tの間は、この犯人というキャラクターが登場するのはここまでである)。
 
 一方2012年のマーク・ウェブ版では、ベンおじさんの死に直面するが、犯人は捕まらない。ピーターは寸前にその強盗と行き会っているが、記憶があいまいではっきりと覚えているわけではなかった。故に、すぐ強盗を追いかけるということはせず、ベンおじさんの死を前に打ちひしがれるシーンが続く。
 
 原作を読み返してみれば分かることだが、原典に忠実なのは2002年版である。2002年版は、強盗を打倒した後、ベンおじさんが遺した「大いなる力には大いなる責任が伴う」という言葉の意味を改めて心に留め、ヒーローとして人を救う道を選ぶ。物語は、ここにスパイダーマンの誕生を見るのである。

 2012年版は、同じ筋道をたどりはしなかった。なぜか――思うに描きたい物語が違うからだ。

 2012年版では、ベンおじさんの死のショックの後でピーターがしたことは、「犯人捜し」だった。簡単な変装で身を隠し、街を飛び回って悪事を働いているゴロツキを片っ端からこらしめて、ベンおじさんを殺した犯人がしていたのと同じ刺青が手首にないか、確かめることを繰り返したのである。この時のピーターは、「ヒーロー」というよりむしろ「復讐者(リベンジャー)」であった。そのついでで悪党を懲らしめるというだけで、2002年版のように人助けを第一義において活動していたのとは、まったく違う。ピーターが本当にヒーローになるのは、橋の上で子どもを救う状況に追い込まれてからである。

 この時にピーターは橋から落ちそうになる車から、一人の少年を助け出す。それまでは身分を隠すための道具でしかなかったマスクにも、新たな意味が加わることになる。そしてこのときはじめて、ピーターは自らを「スパイダーマン」と名乗る。物語は、ここにようやくスパイダーマンの誕生を見るのである。

 原作に準拠すれば、ベンおじさんの死を通して力の持つ責任を痛感し、ヒーローになるという流れの、2002年版の方が正当に思える。ところが、2012年版の持つ、ピーターがスパイダーマンになるまでのこの過程にも、看過しがたい魅力があるようだ。すぐさま正義に目覚めるのではなく、その力の使い方に戸惑い、時には誤り、その果てにようやくヒーローとして生まれ変わる。そこに、ピーターの「未熟さ」、そして「成長」がありありと描かれ、またそれが、「等身大のヒーロー」たる彼への親近感や共感へと繋がってゆく。

 2002年版と2012年版とでは、他にもたくさんの違いがある。が、それらについて一々あげつらうことはせず、その続編たる作品たちにも目を向けてみたい。続編ともなると、描くものが根本的に違ってくる。

 とはいえ、共通している部分も多い。これまでのスパイディのシリーズの1作目で描かれるものがヒーローの誕生だとすれば、2作目は、ヒーローとして生きることの悩みについて重点的に描かれている。
 2002年版の続編「2」は、「ヒーローとして生きるか、人間として生きるか」という葛藤が物語の中心となる。ヒーロー活動のために私生活のほとんどが犠牲となり、立場は好転せず、スパイダーパワーも不安定に……ドン底まで追い込まれ、「スパイダーマンを辞める」という選択をとるピーター。しかし、
メイおばさんの言葉(前回の冒頭に掲げたアレ)によって再び活力を取り戻し、スパイダーマンでい続けることの「責任」を改めて担う――つまり2は「ボーン・アゲイン」の物語なのである。

 一方『アメスパ』の続編はというと、やはりヒーロー活動と私生活との兼ね合いに悩まされるシーンはある。が、ここでの「私生活」は、恋人グウェン・ステイシーとの関係に集約されている。アメスパのピーター――スパイダーマンは、序盤ヒーロー活動を心から楽しんでおり、そのために私生活が犠牲になるという描写は少ない。ただ唯一、彼の心を悩ませたのが恋人との関係である。グウェンの父親は、前作で共に敵に立ち向かい、殉職している。その亡霊が、ピーターを悩ませ続ける。次第に激化する戦いに、もし恋人が巻きこまれ、父親と同じように守り切ることができなかったら……悪夢に悩まされたピーターがとった選択は、スパイダーマンを辞めることではなく、恋人と距離と置き、彼女を蔭ながら見守ることであった。

 ストーリーの際どいところまで踏み込んでいくと、実は『アメスパ』の続編も、「ボーン・アゲイン」の物語なのである。しかし、何から生まれ変わるのかについては、ここでは省略したい。それよりも、その「再誕」にかかわるところで、非常に重要なテーマについて、ここでは言及しておきたい。それはサム・ライミ版の続編にはなかったものである。ストーリー全体を通して、『アメイジング・スパイダーマン2』は、我々にこう訴えかけてくる。


 時間の流れは、決して止められない――と。

 物語は、長い時間のスパムをかけて、ピーターのドラマを描く。それは最終的には喪失と再誕の物語である。かけがえのないものを失えば、時を戻したいと誰もが願う。それなのに時間は進み続ける。過去は変えられない。時は戻らない。失ったものは帰ってこない。その非情な現実に直面して初めて、それまでの何気なかった日々が、当たり前に過ごしてきた時間が、思い出が、悲しいほどに美しい光を帯びて、輝きだすようになる。−−。

 別に、ヒーロー物でなくとも訴えかけられるテーマではある。だが、逆に、このテーマをヒーロー物でやろうとすると、スパイディ以外にない。彼は「われらが親愛なる隣人」――等身大のスーパーヒーローだからである。


 「スパイダーマン」という1キャラクターを題材にして、『アメスパ』は前シリーズとは全く味の違った物語を生みだして見せた。そこにこそ、リブート(再起動)することの意味があると思う。前シリーズの焼き直しではない。技術進化による再映像化ではない。それらをするためには、前シリーズの沈黙期間があまりにも短すぎる。10年を待たずして再び銀幕に帰ってきた『スパイダーマン』、その意味は、前シリーズと異なる方向に、物語の糸を張り巡らすことにあった。

 宣伝などでは、やたらリブート、リブート、「あの名作が、現代によみがえる!」なんてことを強調する。思い入れのある作品が、今の技術で新たに生まれ変わるのは、ファンにとってはうれしくもあるし、不安にもなるだろう。だが思うに、リブートはあくまでも手段であり、最終の目的におくべきではない。大事なのは、物語を描きなおすことによって、どのような新しい意味が作品に加わるかではないか。一つのキャラクター、一つの世界、一つの物語……そこから何か新しいものを、いかにして生み出すか、その試行錯誤と工夫を観ることにこそ、リブート作品を鑑賞することの愉悦があるのではないかと思うのである。


 ちなみに、そうした意味で言うとリブート版『ゴーストバスターズ』は、個人的にはとても楽しい作品だた。元々の作品が男ばかりだったので、今回はリケ女! と、まあ何とも頭の軽い発想だこと……と、最初は考えて劇場に行ったのだが、鑑賞後は素直に反省。DVDでご覧になられる方は、エンドクレジットの最後まで停止ボタンは押さないこと。あのセリフを聞いて初めて、この作品が「再起動」された意味がわかってくる。



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