2016/10/28

FILE5 ゆきて帰りし物語  先輩 K先生の映画学ガイド


 担当者 国語科 小柳優斗


 ゆきて帰りし物語――というこの言葉、トールキンの『ホビットの冒険』で出てくる言葉です。
 どこか異郷へと「ゆき」、そして「帰」ってくる。我々は、冒険の地――非日常的空間に、いつまでもいることはできない。心ときめく素晴らしい冒険をした後には、必ず「帰」らなければならない。現実と地続きにはならない文学に遊び、それを読み終えて本を閉じるとき、わずかに感じる寂寥……それこそが、我々が日常へと「帰」ってきたことの証拠であり、ひとつの「ゆきて帰りし物語」が終わりを迎えた、その瞬間なのであります。

 映画もまた、非日常的・超現実的な世界へと我々をいざなうもの。素晴らしい映画に耽溺し、息する間もなくスクリーンを見つめたその先――エンドクレジットさえ終えて席を立つとき、ふと胸を打つ寂しさ……。今回は、「現実への回帰と新たなる冒険」という観点から、この不思議な感覚について考えてみることにしましょう。


ガイド6「ゆきて帰りし物語――日常への帰還、帰ることの意味」

 トールキンの傑作『指輪物語』を、最高の形で映像化させてしまった、ピーター・ジャクソン監督の『ロード・オブ・ザ・リング』三部作。どれくらい最高かというと、『指輪物語』なんて、ハリポタやスターウォーズ以上にうるさ型のファンが多い文学作品。何せ、愛読され続けてきた時間が桁違いである。ファンの一人一人に、思い描く『指輪物語』の世界があるだろうし、一人一人に「譲れない一線」があることだろう。担当者が大学の学生であった頃に痛感したが、この世の中に何がタチ悪いって、文学ファンほどタチの悪いものはいないのだ。それなのに、『ロード・オブ・ザ・リング』三部作は、そんなうるさ型のファンのほとんどを納得させてしまった。作品の持つ圧倒的なスケール、魅力的なキャラクター、細かく構築された設定、ここぞというときのケレン味・・・・・・そうしたものを、みごとに映像化してしまったばかりでなく、そこに重厚感のある剣劇、何よりハワード・ショウによる壮大な音楽を力を持って、あれこれと面倒くさいイチャモンばかりをつけるファンを、すっかり虜にしてしまったのである。そしてファンタジー映画という一ジャンルにとどまらず、映画史に永遠に残り続ける金字塔として記憶に刻まれることになった。

 担当者としても、PJ監督による『ロード・オブ・ザ・リング』三部作と、その前日譚である『ホビット』三部作は、ほんとうに好きな作品である。『ロード』三部作の最終章『王の帰還』を、涙なしに観たことはない。何度も何度も観直して、それでも泣いてしまう。『ジュラシック・パーク』が、映画にハマるきっかけを作ってくれた作品であるならば、『ロード・オブ・ザ・リング』は、映画が持つ様々な魅力について、気付かせるきっかけを作ってくれた作品である。そのことについても、いずれ語りたい。

 『指輪物語』に忠実に、中つ国の世界を映像化させることに成功した『ロード・オブ・ザ・リング』。だが原作は、全6巻からなる壮大な神話である。それを、3時間×3作品に凝縮するわけだから、どうしたって割愛しなければならないところは出てくる。個人的に、その「割愛」の中でも最も大きな割愛と思しき点は、物語も終盤に近づいたころ、原作ではあった「ホビット庄の掃討」のシーンが、映画では省かれている点だろう。 

 ひとつの指輪は滅びの山に消え、冥王は滅びた。旅の仲間たちは解散し、主人公フロド・バギンズを含む4人のホビットらが帰途につくこととなる。映画では、すんなりと懐かしきホビット庄に帰ってくるのだが、原作ではここで一悶着ある。ホビット庄はならず者らの手によって奪われており、ホビット4人は、それまでの旅で培ってきた知恵や勇気を駆使して、この最後の掃討に乗り込むのである。実はこの部分は、SEE版(スペシャル・エクステンデット・エディション 未公開シーンも含めた完全版)でも登場しないところなのである。

 この「ホビット庄の掃討」が割愛された理由なら、映画と本との区別を考えれば明らかである。これを入れてしまうと、明らかにスケールダウンするからだ。映画は本とは違って、読み返すことも、いったんページを閉じて、次の日に続きを読むということもできない。DVDでも買えば話は別だが、少なくとも初見を映画館で堪能する倍には、絶対に無理な相談である。『王の帰還』でいうと、その「ホビット庄の掃討」に到るところまでに、大規模すぎる戦いが既にあって、しかも決着はついている状態である。人間の王は帰還し、悪は滅び去った。戦いは終わった。圧倒的な感動をもって。そのあとに、ちょっとした小競り合いなど入れて尺を伸ばしても、観る側の興味を萎ませるだけではないか――と、そういう判断が働いたとしてもうなずける。個人的にも、この「ホビット庄の掃討」場面の割愛は、やっていて正解だったと思う。

 ところが、これが文学(小説)となると、この「小規模な騒動」をクライマックスの前に挿入する理由が、俄然はっきりしてくる。大規模な出来事の後の、小規模な一騒動……その先にあるものは何だろう。ホビットら四人にとっては、その先にあるものは、本当の「帰還」であった。彼らは指輪戦争を生き延び、培った知恵や勇気でホビット庄を救い、そしてようやっと「日常」へと帰還したのである。

 ホビット庄の掃討――この場面が必要とされるのは、この事件が日常へ回帰するための通過儀礼として、機能するものだからではないだろうか。

 よくよく思うことだが、映画に限らず物語の登場人物は命がけの大冒険を繰り広げた後、どうやって日常へと戻ってゆくのだろう。たとえばインディ・ジョーンズは秘宝をもとめて世界中を駆け回り、あちこちで崖から落ちそうになっている。そんな彼が家に帰って来て、すぐに日常の生活に順応することができるのだろうか。

 空想の話でピンと来なければ、現実世界、旅行から帰って来たときのことを想像してみると分かる。ああ〜疲れたと言って帰ってくる。どっかりソファーに座る。テレビをつける。いつもなら笑えるバラエティも、なぜだか全然面白くない。つい3時間前は、あんなに楽しい気分でいたのに、この落差は何だろう・・・・・「やっぱり我が家が一番ね」などという言葉は、個人的に全くピンとこない。旅先でわいきゃいやっていたときの方が、楽しいに決まっている。その楽しい感じが、突如ばっさり切られて、やってくるのはどんよりとした現実……。旅先から帰宅する度、担当者は毎回そんな気分になる。別に家を嫌っているわけでも何でもない。日常生活の中では最も落ち着ける場所のはずなのに、このときばかりはどうにもならず疎ましく感じる。

 ホビットの気持ちになって考えてみよう。指輪戦争で、彼らは幾度となく死にかけた。死よりも恐ろしい目に遭った者もいる。そんな彼らが、いきなり家に帰って、ああ疲れたとソファーに座って、すぐ日常に回帰することができるだろうか。「ホビット庄の掃討」は、彼ら四人が、悪人の手に渡ったホビット庄を――ふるさとを取り返すための戦いであった。この戦いを経て初めて彼らは、家を取り戻し、日常に回帰することができたのである。

 旅も冒険も、必ず終りが来る。必ず「帰る」べき時が来る。

 先ほど述べたスペクタクル、興味の持続という点を重んじてか、実は「帰りし」に重点を置く映画は意外と少ない。「帰る」シーンはあっても、日常への帰還が描かれていないことが多い。たとえば『ジュラシック・パーク』は最後、主人公たちを乗せたヘリコプターが島を離れるシーンで終わるが、あの段階ではまだ日常への回帰を描いてはいない。一方続編の『ロストワールド ジュラシック・パークU』では、大冒険を終え、日常に帰還した後のシーンが描かれる。映画全体の出来を見れば、むろん好きなのは初代だが、この『ロストワールド』のエンディングが持つ、不思議な安心感も捨てがたい。
 インディ・ジョーンズで言えば、『レイダース』と『クリスタル・スカルの王国』に、「帰りし」後の彼らが描かれている。しかし今、思いつくものはそれくらいだ。映画のエンディングは暴力的に終わることをよしとする場合も多い。『ポセイドン・アドベンチャー』のように、助けられて終わり! という感じに、大事件の後をちまちま描いてもしょうがないという見方もあるだろう。事実『ダークナイト・ライジング』のように、登場人物のその後を淡々と、しかしちまちま描きすぎてダレをみせた作品も少なくはない。

 「帰りし」の場面が描かれているからと言って、作品全体のクオリティがどうだということにはならない。あっても良いし、なくても優れた作品はたくさんある。しかし個人的には、この日常への回帰が丁寧に描かれた作品は、テンポの良し悪しはどうあれ、何とも言えない愛着を感じさせる。そこに時間の経過を見るからである。あの大冒険を繰り広げたキャラクターが、死線を生き延びてもなお、映画の世界に生き続けているということを実感するからである。そしてそこには常に、一抹の寂しさが付きまとう。すでに冒険は過去のものとなり、主人公たちは日常に帰した。ほんの1時間前の息つく間もない冒険のつるべ打ちも、すでに思い出の一つとなりつつある……。


 映画は非日常の空間へと観客を誘うものである。物語が始まった瞬間から、我々は現実を越えた恐るべき空想の世界へと飛び立ってゆく。しかし物語が終わりを告げようとしている今――主人公たちでさえ日常に帰そうとしている今、帰らねばならない。やがて画面はフェードアウトし、流麗な音楽とともにエンドクレジットが流れだすだろう。その時、作品に対する満足感とともに胸を打つ寂寥が必ずある。それこそが、日常へと回帰した瞬間――「帰りし」瞬間である。素晴らしき物語の、ページが閉じられた瞬間である。我われは映画館を後にして、現実へと帰ってゆく。

 非日常の空間に長居することはできない。長居すれば、そこもまた日常となるからだ。あらたなる「夢」を見るたびに、我々は一度、現実に帰らなければならない。寂寥を胸に抱いて、ゆめへと別れを告げなければならない。それは夢との決別ではなく、新たな夢を見るための「通過儀礼」である。映画館の門をくぐれば、我々はまた、新たな夢に飛べる。非現実の世界へと身を投じることができる。


 「ゆきて帰りし物語」は、映画に魅せられてやまぬ我々自身の生涯のことでもある。スクリーンに投じられる果てなき夢の世界へと人は飛び、そして物語の決着と共に帰ってくる。どちらが欠けてもいけない。現実なきところに、現実を越えた夢の世界は存在しえない。

 今日もまた多くの人が映画館に足を運ぶ。素晴らしき映画の世界へ「ゆく」ために。そして彼らはまた、感動という素晴らしき土産を携えて、こちら側の世界へと「帰って」くる。−−。



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