2016/10/31

『OKU NO HOSOMICHI』 第20回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986OKU NOHOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第20回「西岩出山の夕陽 懐かしのディスカバー・ジャパン(岩出山・宮城県 1991年 夏)」

副島 勇夫(国語科)

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 歩き出した頃から振り始めた雨は、ほんのしばらくの小雨の時間を経てすでに本降りとなっていた。背負った荷物の上からレインポンチョを着ていた私は、それでもどこからか忍び込んで来る雨と汗ですっかり濡れてしまい、半ば、やけ気味だった。

 3年生担任の夏は忙しいだろうと思い、前年の夏はこの「奥の細道」を歩く旅はパスしていた。2年振りの東北だったが初日は雨で17キロしか歩いていなかった。そして2日目の今日も朝からの雨で、昨年の分を今回の旅で十二分に取り返そうという私の目論見はすっかり外れてしまっていた。

 昨日到着した金成(かんなり)町から歩き始め、築館(つきのだて)、一迫(いちのはさま)といった町を歩いているうちに、雨はどしや降りになっていた。いつもの旅なら今日はここまでと諦めただろうが、その時の私は2年振りの東北だという喜びと距離を稼がねばという思い、そして今夏の旅2日目相応の元気さがあった。やむどころかますますひどくなる雨の中、私は一迫町を出発した。

 ここを過ぎると次は17キロ先の岩出山まで宿はない。しかも山超えだ。地図で見る限り車道もあり、標高もたいしたことはない。希望は目的地の方角の空が少し明るいことだった。一迫の町を外れると、道の両側は田畑ばかりになった。時折、車が水しぶきを上げながら通り過ぎていく。対向車も何もないこんな道で減速しなければならないのが鬱陶しいのか、通り過ぎると猛烈に加速していく。雨は少し小降りになったがその代わりに道は登り坂、次第に山の中に入っていく。それにしても車が少ない。もちろん歩いている人もいない。

 「上街道」という復元されたものではあるが、芭蕉の頃を思わせる道に入る。進むに従い鬱蒼として、木々の濡れた匂いに妙に不安になる。おまけに謂(いわ)れのありそうな墳墓の横を通らねばならず、その時ばかりは念仏のようなものを唱えずにはいられなかった。

 上街道は一度車道に合流した後、「上街道千本松」という松並木の道に分岐していく。千本松は延々と続き、雨は今にもやみそうなまでになったが、依然として辺りはうす暗い。松は適当な間隔をおいているので、視界は開けているのだが、山と灰色の空以外は何も見えない。20分ほど経ち、松並木が途切れた。途切れると道がそれ以上はなかった。

 ひき返さればならないのか。

 時刻はすでに午後4時前だった。よく見ると人一人が通れる程の草を踏み分けたような道が茂みの中へと続いている。はたして元の車道に戻れるのかどうか分からないが、間違いなくそれは人が通るためにある道だった。ならば通るしかないだろう。覚悟を決めてどこに辿り着くかもわからない道を歩き出した。下っていくに従って次第に道幅が狭くなっていく。両側の茂みが迫ってきたかと思うととうとう道らしい道はなくなってしまった。

 これはまずいなあ、迷いそうやなあと呑気に考えていると、短パンでむき出しの足がチクチクと痛い。草の葉で切ったのかと見ると点々と血が針で突いたように惨んでいる。どうも茂みのせいではないらしい。気持ち悪いと思ったが、両手でバサバサと茂みとかき分けながら、かろうじて足元にも残されたかつての道の跡を下っていった。

 十分ほどその状態が続いただろうか。伸びた草木のためにかき消されていた道が再び姿を現し始めた。足は相かわらずチクチクと痛がゆい。いきなり視界が開けると道は人2人分の幅になり、民家が1軒おまけにおばあさんが一人あきれた顔をしてこちらを見ていた。

 「まあー」と驚きの声の後、どこから来たのか、何をしているのか、歩いて来たのか、どこへ行くのかというようなことを尋ねられたと思うのだが、方言のためその言葉の半分はわからなかった。

 ただその会話の中で「クマ」という言葉が気になった。出るのかクマが…。もっと山深い所にしかいないだろうとたかをくくっていた。用心しなければ。(しかしこの不安は2日後の8月10日土曜日午前11時20分頃現実のものとなってしまうのだった。)

 小降りだった雨もようやくやみ、レインポンチョを脱ぎながら足がどうなっているのか確認すると、太股に点々と血の跡。それも針で突いたほどの細かい跡だ。そして上半身をねじり足の裏側つまり背中側を見ると、ひざの裏側の少し下に赤みを帯びた白い小さな袋のようなものが、いくつも吸いついていた。

 手ではらうとパチンと弾けて赤い液体が飛び散った。そうかヒルだったのか。そういうこともあるだろう。私は歩き始めながら、アマゾンのジャングルでは木の上にたくさんのヒルがいて、その木の下を牛馬が通ると、どういう仕組みかわからないがばらばらと降り、全身の血を無数のヒルが吸い尽くしてしまうという話を思い出し、ちょっとした冒険家気分に浸っていた。

 それから10分ほどで元の車道に合流し、民家が数軒程度の集落に辿り着いた。パン屋のおばあちゃんに話しかけられ、尋ねてみるとやはりクマが出ると言う。岩出山まではまだまだあるが西岩出山の駅を中心とする町まではあと4キロらしい。4キロなら一時間の距離だ。5時半過ぎには着く。その思いに励まされて歩き出した。雨もやんだ。道もある。しかも舗装されている。楽勝だ。そのはずだった。

 ところが1時間経っても山の中だった。いや正確には山の上だった。ふもとには一面の田んぼ。遠くに栗原電鉄の1両だけの電車が左から右に走っていく。停った所がきっと西岩出山の駅なのだろう。小さな町の様子が見える。遠い、そして足も痛い。雨の中をすでに30キロ以上歩いている。1日25キロペースと決めている身には少しきつい。日が暮れるまでには何とか着きたいのでぺースを上げた。時速6キロぐらいで歩く。下り道で爪先が痛い。

 午後6時半頃、ようやくふもとの国道に出る。町の中心地はきっと駅前だろうから駅を目指す。15分ほど歩き、駅に着くが小さな無人駅。町の中心地とかにぎわいといった言葉とは無縁のひっそりとした駅前である。プラットホームに待ち合い室が1つ。少し離れてベンチが1つ。この町に泊まる所はあるのだろうか。

 とにかく疲れたので誰もいない駅のベンチに腰を下ろす。

 疲れた。

 まだ旅の2日目とはいえ、雨の中の37キロの歩きはきつかった。電車の来る時間ではないらしい。目の前には広大な田んぼが広がる。その緑に暮れかかった西陽が当たっている。その向こうに山が連なっている。あの辺りを歩いていたのだ。ちょうどあそこからふもとを見下ろし、今いるこの駅を見ていたのだと確認していた時だった。

 その感情はふいに訪れ、私の心を乱した。遠くに見える山のつらなりが西陽にゆっくりと染まっていく。目の前の田んぼが赤い陽を受け揺れている。烏の鳴く声。夕暮れ時特有の匂い。周囲のものが少しずつ黒くなっていく。

 振り返ると、ものすごい夕焼け。雲が赤黒く次第に影を濃くしていく。天に面して黒く、地に面して赤く、低いところをほのかに赤い透けるような雲が流れる。

 この場面。この瞬間。自分の中の記憶とは違った別のどこかが、この場面を知っている。

 自分の中の何かがこの風景に共鳴している。これが見たかったのかも知れない。

 広がる田んぼ。遠くの山々。夏。夕陽。静かに冷えていく熱気。

 自分の中にある1つのイメージ。

 小学校の時の下校の音楽「遠き山に日は落ちて」あれはドボルザークだったか。幼い頃過ごした兵庫県西宮市の社宅の2階の窓から見ていた日没。その頃通っていた保育園で夕方の母の迎えを待つ自分。夕焼けの後、次第に暗くなっていくのが不安だった幼い日の記憶。そんな夕暮れの記憶が次々に蘇る。

 気がつくと私は泣いていた。夕陽がその最後の輝きを見せた後、すべては燃えつきたように色を失なっていった。

 無人駅の誰もいないホームで、ベンチに腰を下ろしていた私はようやく我に返り立ち上った。それは約15分間の出来事だった。そしてこれが「奥の細道」の旅なのだと思った。

 さて、泊まる所はあるのだろうか。なければこの無人駅の待合室でもよい。ベンチも屋根もある。これで充分だ。中に入ってみると壁にはいくつもの落書き。その中の一つが目にとまる。「岩出山の田舎っぺ。この田んぼ、何とかしなさい!仙台のCity girlより」それに答えた落書き。「仙台には米送らん!さっさと帰れ!」。私はウエストポーチの中のボールペンを探し、そこに書き加えた。

 「そうだ送るな、絶対に。田舎を、この広がる田んぼを馬鹿にするこんなやつに米を食わすな!」

 日本もまだまだ捨てたものではない。こんな緑の田園風景がある。昔からの何もない日本がある。明日は晴れる。何も気にせず歩くことができる。さあどこかで晩飯食って、今夜は駅の待合室で寝ることにしよう。どうだ、私はこんなにも自由だ。そんな思いが私を満たしていた。

 次回は第21回「ある日森の中、出会ったもの・・・それはクマさん〜前編」(出羽街道中山越、宮城県。1991年、夏)です。

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