2017/1/23

『OKU NO HOSOMICHI』 第26回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜
1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第26回「そして南へ?自転車少年と無人駅のぬいぐるみ」(鶴岡、酒田、女鹿、山形県、秋田県。1995年、夏)

副島勇夫(国語科)

 旅を続けている中で、住んでみたいと思う町に時々出会う。私にとってその第1位は山形県の鶴岡市だ。鶴岡は山形では5、6番目の規模の街である。といっても都会というほどのものではない。高槻や吹田と比べ、2回り、いやそれ以上小さい。駅前や繁華街のたたずまいは似たところもあるが、ビル街はすぐに途切れ、住宅地もしばらく行くと途切れ、広大な田畑、庄内平野が広がっている。飛行機から眺めると鶴岡の町は、夏は田畑の緑、冬は雪の白さの中に浮かぶ島のようで美しい。最もこの辺りの町はすべてこのように見える。

 鶴岡 [やまがたへの旅 観光画像より]

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 鳥海山

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 そんな緑の中に浮かぶ町の東端に赤川が流れ、はるか北には最上川、その北に標高2237メートルの鳥海山が見える。東には羽黒山、月山、湯殿山の出羽三山。南にも数々の山が連なる。歩いて7、8時間、車なら1時間の距離に数多くの名勝、温泉があり、日本海も近い。米が旨く、人情も深いと良いことづくめである。私は庄内空港が近いこともあって、奥の細道の旅の最終日はこの地で過ごすことが何度かあった。人口も多すぎず、ちょうどいい街という印象だ。

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 前日に出羽三山を下山した私は鶴岡に1泊し、次の宿泊地である酒田を目指して歩いていた。小雨が降ったり止んだりの空模様で、本来なら見えるはずの烏海山の美しい山並も見えなかった。

 歩き出して2時間ほど経ち、川沿いの道を北上していると、荷物を左右に振り分けた、自転車の高校生が私を追い越して止まった。「こんにちは」と挨拶をする日焼けした顔が逞しい青年だった。互いにどういう旅なのかを説明し合い、彼は自転車を押しながらしばらく同行してくれることになった。高校生と高校教師ということや、私が大阪から来たということに興味を持ったのか、話は弾んだ。彼は北海道の釧路から宮城県の松島まで、一日100〜140キロを走行する、テント持参の旅の帰りだそうだ。

 釧路での2度の地震の話から阪神大震災の話、釧路は夏でも30度を越えず、クーラーのある家は珍しい、冬はマイナス25度で、吐く息が服にかかるとそこから凍るという話、大阪のタコ焼きは本当においしいのかから、大阪には阪神ファンしかいないのかと素朴な疑問まで、会話の途絶えない1時間だった。大阪弁が珍しいのか、何を言っても面白がってくれる。なかなかできた人物である。

 去っていく後ろ姿を見ながら、この高2の青年の計画性、実行力を頼もしく感じた。自分が励まされたように思えた。旅を続けていると、時々こういう同士に出会う。さすがに歩いてという人には会ったことがないが、自転車、バイクの旅行者とは挨拶を交わし、どちらからともなく旅の話になる。それもこの旅の喜びの1つだ。

 午後3時頃、酒田市に到着。酒田は港町だ。ロシアからの船が着く。街の中の至る所でロシア語の文字が目に入る。ロシア人と思われる人も多い。地元の女子高生と記念写真を撮っている2人組もいる。街の規模は鶴岡と同じかそれ以上だが、なぜか人が少ない。どこか寂しい感じがするのは、ここが以前、大火で焼けた街だからかもしれない。私は街見物もあまりせずに翌朝、酒田を出発した。

 次の目的地は「奥の細道」最北の地、秋田県象潟(きさかた)である。酒田から36キロ北にあり、何とか1日で到着できる距離ではあったが、今回の旅ではすでに月山、湯殿山という2000メートル近い山を登下山しており、足腰ともにいっぱいいっぱいの状態だった。途中、酒田の10キロ北にある「十六羅漢」という名勝で寄り道をしたこともあって、この日の象潟到着は困難に思われた。

 午後に入り少し薄日が差すようになったが、相変わらず晴れ間の少ない空の下、私は歩行者のほとんどいない国道7号線を歩いていた。左には曇天の下の青暗い日本海。右は民家か山裾という道である。前方右には晴れていれば鳥海山が見えるはずだった。夕方になり次第に日没が近づく。あとのことを考え小さな食堂で夕食をとる。どこに泊まろうか。地図を広げて思案する。1時間ほど前、温泉宿を通り過ぎてしまったことが悔やまれた。その時は先に進めば何とかなるだろうと思ったのだった。

 天候が悪いこともあり、8月5日はあっさりと日が暮れてしまった。今晩をどう過ごそう。私はこれまでの約10年の旅を振り返った。見ず知らずの方の御宅で泊まったこと、交番の椅子で眠ったこと、野宿。野宿だけは避けたかった。雨でも降れば悲惨である。そして蚊や蛾の襲来に眠るどころではなかった。駅のホーム。その手があった。一度無人駅のホームで寝たことがあった。虫よけスプレーを手足にかけ、ついでに周辺の壁にも振りかけ眠った。自販機やトイレもある安心感は野宿よりはるかに快適だった。

 地図を見ると近くにJR女鹿(めが)駅があるはずだった。恐らく無人駅だろう。私は痛み始めた足を引きずり、駅舎らしいものを探して歩き出した。ところがそれらしきものが一向にない。線路すら見えない。右も左も林ばかりで、時折左の視界が開け崖下に日本海が見える。右の竹やぶの切れ目に木製の立て札がある。文字を読むと「JR女鹿駅入口」と書かれている。そこから林道が頼りなく続いていた。まさかという思いと不安が込み上げ、足が止まってしまう。意を決して、駅に続くとは思えないその道を歩き出した。道はうねうねと曲がり最後に下ると、小さな倉庫か公園のトイレぐらいの大きさの建物があった。壁に墨で「女鹿」と記されている。どうやらこれが駅舎らしかった。

 中に入ると木製の古びたベンチと台があり、中央のストーブが冬の寒さを想像させる。カレンダーだけが新しく今年の8月を示している。ホームへ出てみると周囲の暗さの中に常夜灯の明かりが等間隔で浮かんでいる。少し気味が悪かった。虫の声しか聞こえない林の中である。私は駅舎に戻りほこりだらけのベンチに座った。壁に掛けられた時刻表を見て驚いた。何とこの駅には上り下り合わせて1日に5本しか電車が停車しないのだ。上りの酒田行きは朝に2本、下りの秋田行きは昼、夕、夜に1本ずつなのである。

 時計を見ると夜の8時過ぎだった。この駅に停まる電車は明日の朝の6時31分までなかった。私は次第に不安になっていった。窓ガラスにあたる蛾の羽音、虫の声、時々聞こえる烏の声に私は過剰に反応していた。目の前の古い本棚に古い雑誌とノートが置いてある。よくある旅の雑記帳というやつだ。それによるとこの女鹿駅は小さな無人駅として有名らしかった。深夜に到着した自転車旅行の大学生が一泊している。皆この駅に驚いているようだ。私も不安を紛らわすために3ページほど書いた。内容は自分の旅ノートにも控えてあるが、あまりも青臭い文章なのでここでは記さない。

 本棚の上に古いウサギのぬいぐるみが2つ置いてあり、「こんにちは!女鹿駅のマスコットです。可愛がってあげて下さい。JR東日本」と書かれた紙が立て掛けてある。その赤と白の2匹のうさぎの間の抜けた顔を見ているうちに私は笑いが込み上げてきた。何故か無性におかしかつた。そして笑い終わったときには私はすっかり落ち着いていた。どうとでもなれというような覚悟ができたようだった。

 夜9時を過ぎ、何もすることのない私は寝ることにした。この経験を楽しもうと思っていたのだが、今にして思えば無理をしていたのだと思う。夜中に通過する列車の音に何度か目が覚め、その度に間の抜けたぬいぐるみを見ては目を閉じた。私はこの2匹に救われたのだと思う。

 翌日、やはり曇り空の下、今回の旅の最終目的地象潟を目指した。女鹿から16キロ、約4時間の距離である。歩き出して10分もすると女鹿の集落があった。旅館などはないが、昨晩の悪戦苦闘を思うと、なあんだという感じである。背負った荷物が重く肩が痛い、足もつらい。心の中で、「キサカタ」と何度も唱えながら歩いた。象潟は「奥の細道」の旅の最北地である。つまり折り返し地点、南下の旅の出発点なのである。

 実際は象潟までの道のりより、そこから日本海に沿って新潟、富山、石川、福井、岐阜と歩く後半の方が距離はあるのだが、何と言っても東北を目指した旅の終わりなのである。歩き始めて10年、8回目の旅で象潟までようやく来たという思いを味わいたくて私は次第に足速になっていた。

 午後1時30分、JR象潟駅に到着する。駅前の観光案内板を参考に私は住宅地を抜け、古来よりの名勝、歌枕の地である象潟の中心を目指した。芭蕉が訪れた当時この地は東西2.2キロ、南北3.3キロの陸地が陥没した入江で、九十九島、八十八潟があった。つまり入江に無数の島が浮かぶ浅い海であった。鳥海山を背景とする風光美をうたわれたのである。宮城県松島を規模を小さくし、島の密度を高めた感じだ。ところがその後、文化元年(1804年)の大地震で隆起して、入江は陸地となってしまった。今はかつての島が、点々と散らばる松の茂る小丘として、田畑の緑に浮かぶようである。私はその水田地帯を通り抜け、なるべく全景を眺めようと低い山へと続く道を歩いていった。20分ほど丘を登り、全景とは言えないまでも数多くの小丘が見渡せる所で腰を下ろした。相変わらず雲の多い空だったが、私は感無量だった。

 ここは秋田県なのだ。10年前、ふらっと東京へ行った最初の旅。暑さのためにクラクラした初日。あれから10年経ったのだ。今では旅装も計画性もすっかり変わっている。1日で歩く距離を定め、1時間毎に休憩を取り、歩きやすい服装、靴、荷物の詰め方、背負い方も考えている。すっかり旅慣れた。そして10歳分年を取った。私はこの10年で何を得て、何を失くしたのだろう。

 次回の旅はここを起点としようと思った。今までとこれからの10年を考えて歩くのだ。ここから南を目指す旅の始まりである。このまま北を目指したい、東北という土地を旅していたい、その思いをもって南下しよう。来年の夏、東北に別れを告げ、越後路へと踏み出す旅となる。しかし、期待感と高揚感に衝き動かされて東北を目指したこの10年の旅は、20歳台ということとも合わせて特別なものになるのだろう。

 翌日、庄内空港を出発した全日空762便は、夜の8時過ぎに大阪伊丹空港に到着した。機内から眺めた大阪の夜景は、途中に見えた名古屋の100倍ほど明るく華やかで、ビル街のネオン、高速道路、一般道の車、人家の無数の明かりに溢れ、そしてどこか苦しそうだった。

次回は第27回「鳥海山との再会」(象潟、温海 秋田県、山形県。1997年夏)です。

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