2017/2/13

『OKU NO HOSOMICHI』 第28回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第28回「陽はまたのぼり繰り返す―日本海に夕日は沈み、日射病と水害」(瀬波、中条 新潟県。 1998年 夏)

副島 勇夫(国語科)

 奥の細道を歩く旅をしていると恐いものが3つある。

 泊まった宿で妙に居心地の悪い部屋、森の中で出会う熊、それにトンネルだ。出口の見えない長いトンネル。

 おまけに車が少なければ、そこは一瞬にして外界から切り離された異空間となる。私の目の前には府屋第一トンネルがあった。全長605メートル。出口は見えず、オレンジ色の明かりがトンネル内を照らしていた。時折、長距離トラックが時速80キロぐらいで通り過ぎていく。トンネル内ではその時に巻き起こる風で、体が道路側に引っぱられるのである。そして何よりもトンネル内は暗いのだ。暗さは誰が何と言おうと笑おうとイコール恐さなのである。私はどうにかしてこのトンネルを通らないで済む方法はないかと考えた。

 辺りを見ると国道の10メートルほど下に舗装されていない道が同じ方向に続いている。周囲は山だ。民家もない。前方の山を越えると集落かあるのだ。ならばその道は集落に続くはずだ。私は少し引き返し下の道に降りた。進行方向を見ると100メートルぐらいのトンネルがある。かつてはこれが唯一のトンネルだったのだろう。古びた現役引退といった感じのトンネルだ。出口も見えている。しかしというかやはり、そのトンネルには明かりかなかった。進行方向の遠くには出口の光かあるが、足元や左右は薄暗いのである。私は少しためらった。しかし出口は見えている。気を取り直して歩き出した。一歩、二歩、三歩。

 その時だった。トンネルの中、遠くで力−ンという音。私は思わず後退った。いったいどうしたら無人のトンネル内であんな音が出るのだろう。考えるまでもなかった。私は来た道を引き返し国道に上がると、605メートルのトンネルを小走りで一気に抜けていった。トラックの風にあおられながらも「まだましだ」と言い聞かせ、出口の光かなかなか近づいて米なかったことしか覚えていない。こうして10回目の奥の細道の旅の初日、7月23日は過ぎていった。

 2日目は今にも雨の降り出しそうな曇天。この日は右手に絶えず日本海を眺め歩く道だけに残念だ。磯のにおい、浜風、それほど暑くはないがべ夕べ夕とする。時折、陽が差し少しずつ焼けていく。海水浴場をいくつか通り過ぎ、今川のビーチハウスで昼食。家族連れや友人同士、カップルの中で一人浮いていた。視線がつらかった。

 再び歩き出して2時間。朝9時から歩いて約25キロ、時間は午後3時過ぎ。休憩時間も含まれているので時速5キロペースだ。2日目だけに快調である。午後4時頃、早川に入る。休憩。国道から少し外れて海側の斜面に腰を下ろす。目の前にキラキラと光る海。結局一日中雨は降らなかった。水平線。海と空の境界を白いかすみのような帯が分ける。座わってただ海を眺める。

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 30分ほどして宿を探しにJRの駅前に行く。駅といっても無人駅。駅前のベンチに座って自販機のジュースを飲む。セミの声は7月というのにヒグラシ。カナカナカナ……と啼いている。カラスの声、空にはトンビ、磯の香。小さなポストが一つ、駐在所の前に立て掛けたベビーカー、民宿「しおかぜ」さびれて1軒、とても営業している風には見えない電気屋さん。その向こうで海が輝いている。何もない村に日が暮れていく。1才ぐらいの子どもをベビーカーに乗せたお母さんが通り過ぎていく。貨物列車が通り、声を上げてはしゃぐ子ども。民家か数十軒の村の生活。辺りか薄暗くなり、私はようやく腰を上げた。

 翌日はものすごい晴れ。雲もほとんどない。ジリジリと焼けていく。本当に青い海。青い空。首の後ろと手の甲がピリピリして熱い。昼食の時、「すみません。牛丼一つ。」と言っただけで、「関西の人でしょう。」と見抜かれる。そういうものだ方言とはと、妙に満足する。半島のように突き出た所にあるこの店からは、左に村上の街並、正面の海の向こうにこの日の宿泊予定地の瀬波温泉か見える。海水浴場の砂浜に隣接してホテルや旅館が30ほど立っている。夕陽の見えることを売りにしている宿が多く、私もこの日の日没を楽しみにしていた。天気は快晴。燃えるような夕陽、それも海に沈む夕陽を見てみたかった。

 午後3時、瀬波温泉到着。テレビが新潟県下越地方(つまりこの辺りだ)が36.6度で本日の全国最高気温であることを告げていた。暑いはずだ。シャワーを浴びてこの日の日没時間午後6時59分まで寝ることにした。6時過ぎに設定したアラームで目を覚ますと私は砂浜に出た。夕陽を見る人が結構多く、やや興ざめだったが、夕陽はすでに空と雲、そして海を赤黒く染めていた。これは美しい光景なのだろうか。

 夕焼けは翌日の晴天の証しと言われる。だかこの日本海に沈む夕陽は、翌日の訪れさえ保証してくれないような不安を感じさせた。前日見た夕陽は小さな村の変わらぬ明日を告げているかのようであったが、この日の日没は凄まじかった。どす黒い雲の向こうで空か燃えていた。地球最期の日の空はきっとこんな空なのだろう。たっぷりと時間をかけ太陽は壮大に沈んでいった。辺りの人影がまばらになった頃、私は立ち上がり自分の部屋に戻った。

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 翌日は朝から30度を超えていた。天気はまたもやものすごい晴れである。日焼けの上に焼けていくのか痛い。手足の所々は点々と血が浮いたように腫れていた。道路に設置された気温表示板が36度を示している。そう言えば数年前、山形県鶴岡市を歩いていた時、39度だったことがある。その時の空は青をはるかに通り越していた。

 今日もそんな感じである。雲一つない。見上げると目の前が暗くなった。少なくとも24キロ先の中条市までは歩きたい。海沿いから少し内陸に入り、集落と集落の間は田畑というパターンの道が続いた。妙にしんどかった。昼食のカツ丼も残してしまった。店の外の水道で顔を洗ったり、頭から水をかぶってもみたが、フラフラした。

 それから2時間ほど歩く。顔がピリピリとする。鼻の皮が軽い音を立てて剥けていく。消耗していた。民家の立て込んだ所に出た。水分補給をしなければと自販機を探す。欲を言えばベンチも欲しい。我慢してしばらく歩くと乙(きのと)という集落の物産館があり、休憩するには願ってもない環境だ。屋外の自販機で十六茶を2本買い、1本を一気に飲みほすと残りをためらうこともなく頭からかぶった。

 ベンチに腰を下ろす。立てそうな気がしない。手にした十六茶の缶を見たまま動けなかった。「ハトムギ、大麦、緑茶、玄米、黒豆、ウーロン茶、ハブ茶、……」ハブ茶のハブって何だ。ヘビのハブかなどと思いながら、その黄緑色の缶を見ている。頭の中では「ハトムギ、玄米、月見草」とCMソングか流れる。違う。それは爽健美茶だと思っていると、目の前が白くゆらゆらとして、セミの声が遠のいていく。眠い。全身の力が抜ける。熱中症?ああそうなんだ。これは熱中症な……。

 それからどれほどか時が経って、物産館の人の困惑した顔が目に写った。どうしたんだと、どこかへ行ってくれの混ざった表情だ。すでに陽は傾き、辺りは夕景であった。またしても夕陽だ。こうして地球最期の日も無事終了し、その後も炎天下の中を3日歩いた。しかしこの年の「奥の細道」の旅はもうこのタイミングしかなかったのである。

 帰阪後、数日して新潟は記録的な大雨。河川は氾濫し、新潟市内も含めて各地で1メートルの浸水。私が歩いた辺りも水浸しになった。大雨の後も一度回復した天候が再び悪化し、東北・北陸の梅雨明けは宣言しないという宣言が出される。新潟の夏はあの7月末の猛烈な暑さだけとなってしまうのである。

 次回は第29回「リアリズムの宿、弥彦祭りの夜、新潟で一番の景色」(白根、弥彦、出雲崎
新潟県。1999年 夏)です。

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