2017/3/20

『OKU NO HOSOMICHI』 第29回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第29回「弥彦祭りの夜、新潟で一番の景色」(弥彦、出雲崎、新潟県。1999年 夏)

副島勇夫(国語科)

 「お父さんは今、山の上にいます。弥彦山。海が見えます。船はいません。青と黒と緑の混ざったような色。天気は晴れてる。紫陽花がいっぱい咲いていて、後ろを見ると山の下の方に田んぼがいっぱいで、その中に家とか学校とか駅が見える。え、弥彦山。や・ひ・こ……」

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 この年の旅から携帯電話を持つようになった。当時3歳の娘が電話で話したいと言うので、なるべく文明の利器は持たないように、少しでも松尾芭蕉の気分に近づきたいという考えを曲げて持って来たのだった。

 弥彦山

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 奥の細道踏破の旅は、この年で11回目を迎えた。弥彦山は638メートルの海に面した山で、南には越後平野に点在する吉田、巻、燕、三条といった町の様子が一望できる。芭蕉は登らなかったようだが、来た道行く道を上から眺めてみようと登ってみた。そして山頂で休憩しているところに着メロが鳴ったのだった。当然圏外だろうと思っていただけに驚いたが、やはり山頂だけに入りやすいのかと感心した。風が心地よい。日本海を眺めながら娘と話しているのが不思議だった。弥彦山の麓には越後の国の一宮である弥彦神社がある。その神社の御神体がこの山なのである。そしてこの日、7月25日は弥彦祭りだった。

 祭りの当日にそれほど大きくない町で宿探しをするのはひと苦労だ。何軒か尋ねたあげく、ようやく旅館の離れならと言われ、部屋に向かうとプレハブ小屋の不思議な建物だった。20数キロ歩いた上に山まで登ったので、早速風呂に入り、夕食を食べた。部屋に戻り、何となくウトウトとしながら松坂大輔(今や見る影もないが)の初オールスターゲームを観ていた。時計を見ると午後8時前だ。

 その時だった。ドーンという轟音とともに部屋が揺れた。次いでバーンという音。慌てて窓を開けると旅館に隣接する公園で花火を打ち上げている。続いて2発目。部屋の机の上のコップが震動で音を立てる。部屋から飛び出し裏口から路地へ出る。3発目。頭上一面の花火。思わず笑ってしまった。人は予想外の事に出会うと笑うものである。それが楽しいことなら尚更だ。

 私はそのまま引き寄せられるように祭りの中心まで歩いていった。かろうじて部屋には鍵をかけたが、フロントも通らず宿の下駄履きのままだ。カランコロンと下駄を鳴らしながら車輌通行禁止となった道の真ん中を歩く。道の左右はシートを敷いた人で埋まっている。旅館の窓、民家の屋根の上の人々が皆うれしそうだ。屋台でイカ焼きを買い、路上に座り込んで花火見物をする。一発一発の大型花火を、町内の会社や店が費用を出して打ち上げている。どこの何という団体による花火なのかということが放送で一発ずつ説明される。

 30分ほど夜空を見上げていると、山の方からたいまつの行列が来たので、私は腰を上げた。ちょうどいい。宿にカメラを取りに帰ろうと思った。ところが宿の近くまで来て、ポケットに入れたはずの部屋の鍵がないことに気がついた。部屋の名前が記されたプラスチックの棒がついた、よくあるタイプのものだ。落とせばわかりそうなものだが、それに気づかないのが祭りの夜だ。路上に座りこんでいたときに滑り落ちたのかも知れない。

 急いでもとの場所に戻ったが、たいまつの行列が通り過ぎた後、再びレジャーシートが敷かれ大勢の人が座っている。私は仕方なく事情を告げ、20人ぐらいの人にシートの下を見てもらった。こういう文章の常として、皆、心安く調べてくれたといいたいところだが、実際は露骨に嫌な顔をされた。「え−っ。弁当広げたのに。」とか言われてしまった。恥ずかしく情けなかった。仕方ない、持ち出した方が悪いのだ。

 鍵は出て来ず、私は宿に戻り頭を下げた。すると、宿の主人が言うには鍵の落とし物の連絡があり、今バイトの学生を祭りの本部まで取りに行かせているとのことだった。宿の主人は丁寧な口調でそう言ったが、目は冷ややかだった。ホッとしたと同時に反省した。こういうことになるから横着は禁物だ。見つかってよかった。そうでなければ何人もの人が嫌な思いをした。

 今度はフロントに鍵を預けて祭りに戻る。花火は9時前に終わり、次いで灯籠祭りが始まっていた。1000年続くこの神事は、男たちが歌いながら、燈篭と呼ばれる花や低木で飾られた台を差し上げ、回し、練り歩くというものだ。その灯籠が歌声とともに次々とやって来る。若い者も年配の者も一緒になり、熱気と酒で真っ赤になって見物人にいいところを見せようとする。伝統あるそれでいて身内意識の高い祭りだ。

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 周囲から掛け声か掛かり、担ぎ手の男たちかそれに応える。「若い者にはまだまだ負けん」と「まあ自分たち若い者に任せて少しは気を抜いて」という世代ごとの思いがぶつかり合うこともなく収まっている。男たちの「よーいとこ、よーいとこだー。」の歌声か心地よく耳に残る。ふと見ると通りの反対側に宿の主人かいる。目が合うと笑って手を上げて下さった。うれしかった。その目が「いい祭りでしょう」と語りているようだった。

 弥彦祭りの日から2日後、私は出雲崎を目指して歩いていた。この日は朝から異様な暑さで、宿を出た時から空気は淀んでいた。ものすごい気温になりそうだ。前年の日射病のことを思い出した。しかし、この日の行程はわずか15キロと今回の旅の中で最短である。1日平均25キロを昼食、休憩含めて7、8時聞で歩くのが、この旅の基本パターンなので、15キロは楽勝だった。

 昼頃には出雲崎に着く。その後はのんびりとこの古い港町を味わおうという狙いなのだ。それにしても暑かった。小さな海水浴場を時々右手に見ながら海岸線を歩く。平日ということで人は少ない。快晴。海の家の白い柱に掛けられたラジオが、今日の予想最高気温が38度以上であることを告げていた。暑いはずだった。それにしても38度以上とはどういうことなのだろう。そもそもそういう予報はありなのだろうか。38度なのか40度なのか、はっきりしてほしい。一番暑い時間帯までに着こうとの思いで先を急いだ。

 昼を過ぎた頃、出雲崎町に入る。出雲崎は日本海と背後の低い山に挟まれた細長い小さな町だ。その山を越えるとJRの駅があり、その周辺は現代の小さな町という感じだが、海沿いの方は芭蕉が訪れた往時を偲ばせる。古い木造りの二階家か道の両側を埋める町並みになっている。当時は佐渡ヶ島への渡船場として賑わっていたのだが、今ではすっかり鄙びた田舎町だ。

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 ところがその鄙びた感じに、狭い道に、背後に迫る低い山の中腹に町を見下ろすようにある社寺に、何とも言えぬ風情があるのだ。またこの町は芭蔦か通過した約70年後に生を受けた、良寛和尚生誕の地として有名である。町の中ほどの生家跡に小さな堂が建ち、その裏に日本海を見つめて良寛坐像がたたずむ。それほど古い像ではないだろうが、あまり大きくないのがなかなか良い。このまま何百年も海を見つめていてほしいものだ。どこか高い所からこの小さな町を眺めてみたいと思い、急坂を登り裏山の頂上付近の良寛記念館を目指す。そこには夕日の丘公園があり、日本海を見下ろす眺めは新潟一だと何かの観光案内で読んだことかあった。

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 記念館から木の生い茂る丘を蜂に追われながら登る。うねうねとした道を進んでいくと突然目の前が開け、公園の遊具のような、山頂から突き出た見晴らし台がある。登ると目の前を遮るものは何もなく、空中に投げ出されたような感じである。眼下に薄く伸びたような町並み。黒を基調とした屋根瓦の二階家。良寛堂が小さく見える。狭い道。そしてその向こうにどこまでも広がる日本海。思わず声か出る。これこそ新潟一の眺めだ。町が鄙びているからまた良い。

 電話をしようかと携帯を出すと圏外。でも、まあいいか。これは電話で伝えても意味かない。いつか自分の目で見るべき眺めなのだ。「お前が3歳の夏、お父さんはこの眺めを見せたい」と思った。そんな話をしながら再びこの場所に立ちたいものだ。そう思い見つめる紺碧の海の向うで、夏の霞の中から佐渡ヶ島が姿を現わしはじめていた。

 次回は第30回「道ならぬ恋の聖地、トンネル駅の村」(柏崎、青海川、筒石 新潟県。2000年 夏)です。

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