2017/5/23

『OKU NO HOSOMICHI』 第31回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NOHOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第31回「「イチローの夏、日本の夏」(親不知、市振、新潟県。2001年 夏)

副島勇夫(国語科)

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 今となってみれば、それが前任校での最後の夏だった。6月末から体調を崩した私は、いつまでたっても治らないまま通院を続け、1か月近く経った頃には薬も合わなかったせいか1日中、身体がフラフラとした。13回目の「奥の細道」の旅の出発予定日まであと数日だった。医者は反対したが、結局、紹介状のようなものを書いてもらい、悪化すればそれを旅先の医者に見せるようにと言われた。思い出しても、あの頃はつらかった。

 前年の旅の到達地点から始まる旅というのは楽しいものだ。その土地の小さな変化を見つけることも、変わらない町の様子を見ることも嬉しいものだ。大阪での日常の生活での自分と、もうすでに十数年にもなるこの旅での自分という二重の時を過ごしているような感じが、解放感を与えてくれるとともに、旅先では旅を始めた頃の20代の自分のままでいるような錯覚に浸らせてくれる。
 
 この旅に出ると、夏の大阪の暑さと湿度、特に旅先との湿度の違いか強く感じられる。到着して駅や空港を出たときに感じる湿度の違い、その少しサラリとした感じによって旅の始まりを実感する。今年も戻って来たという思いが湧き上がる。ところが、今回は前述のフラフラ感が相変わらずつきまとい、大阪での日常を引き摺ったまま歩き出すことになった。

 新潟県の西部に位置する糸魚川を昼過ぎに出発した。歩き始めて30分もしないうちに、自分が揺れているのを感じた。私はたまらず座りこみ、10分ほどして一軒の食堂に入った。私の気分はすっかり萎えていた。テレビでは衛星放送のメジャーリーグ中継が放映されていた。快進撃を続けるシアトル・マリナーズの試合だった。一杯のかき氷を食べ終わる頃にイチローの打席が回ってきた。客席からは日本式のイチローコールが聞こえる。

 イチローのオリックス時代のエピソードの一つに「究極の空振り」というのがある。投手の投げたボールが狙い球と異なることを瞬時に察知したイチローは、始めてしまったスイングに微妙な修正を加え、ボールに当たらないよう、つまり凡打に終わらないようバッ卜の軌道を変え、あえて空振りをしたというものである。そして空振りをしたイチローは確かにニヤリと笑っていた。

 人は誤りに気づきながらも惰性で続けてしまうことが時としてあるが、イチローのこの判断力と技術はさすがだった。この年アメリカン・リーグの最優秀選手、首位打者、盗塁王、新人王など各賞を総ナメにしたイチローも、この頃は調子が下降気味で凡打を繰り返している。平凡な内野ゴロに終わったのを見とどけると私は店を出た。

 さあどうするか。イチローのように技術はいらないが、判断はしなければならなかった。私はこの日は歩かないことにした。ムリをせず、明日もダメなら大阪に帰ろうと思った。宿を探し、部屋に入るなり布団を敷いて寝た。目が覚めると夕方の6時。ニュースではイチローがこの日の最終打席でホームランを打ったことを告げていた。

 旅の2日目。この日は朝から気分も良く、よしと思って出発した。数日前から薬を飲んでいないことも良かったのだ。やはり合っていなかったようだ。約20キロ先の、旧北陸道最大の難所、「親不知(おやしらず)」を目指し歩き始める。水が滴るほど濡らしたタオルを首に巻き、いつもより休憩を多く1時間歩いては10分休むというペースで歩くと、吹く風も心地好く感じられた。天気は快晴。ようやく旅が始まった気分だ。青海町に入り、町並みか途切れ、道が登りになる。いよいよ天険「親不知」が近づいているようだった。

 この辺りから市振までの約15キロの海岸を親不知・子不知(おやしらず・こしらず)という。北アルプスの北端が、この辺りでそのまま急激に日本海に落ち込み、高さ400〜500メートルの断崖絶壁を作っている。旧北陸道の最大の難所で、明治16年(1883年)の国道開通までは、この断崖の下のわずかな砂浜を人々は波を避けながら通っていた。所々にある洞窟が天然の避難所になり、大懐、小懐、大穴、小穴などの名が付けられている。

 大懐から大穴までは最も危険な所(天険)で、走り抜けないと波にさらわれることから、長走りと呼ばれている。波打ち際を通る時、親は子を忘れ、子は親を見る余裕もなかったことから「親不知・子不知」の名がついたとも言われる。文字通りの命がけの旅であった。芭蕉もこの難所を越えて、疲れきったことを記している。

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 現在は海の侵食により、旧街道跡は寸断されており、遥か下に海を見下ろす国道を歩くしかなかった。わずかにスピードを落とすだけで通っていくトラックに注意しながら、歩道もない道を歩く。右手は遥か下に日本海、青い夏の海だった。左はというより歩いている場所そのものが山の中腹だった。洞門と呼ばれる、海側の壁がスリットになった落石よけのトンネルが連続する。後ろから轟音がするたびに立ち止まり、目で確認しながらトラックをやり過ごす。日陰なので涼しいのだが、歩くペースは落ちてしまった。糸魚川を出発して3時間ほどが過ぎた頃、目の前に絶景が広がる。小さな展望広場があり、休憩を長めに取る。

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 親不知の山並が日本海に落ち込んでいる様子がよくわかる。潮の満ち引きの加減もあるのだろうが、波打ち際といっても幅などほとんどない。満ち潮の時や海が荒れた時などは通れるはずもなく、冬など何日も足留めを余儀なくされたのも当然だと思われる。新潟から富山の間にこのような道とも呼べない道があり、その10数キロでかつて多くの人が命を落としている。そのような状態がわずか120年前まで続いていた。移動が多く交通の発達した現代では考えられないことだが、この場所でこの眺めを見ていると充分に実感できた。

 20分ほど休憩したあと、再び洞門が続く道を歩く。相変わらず、右下にはどこまでも続く日本海。ダラダラと続く登りを20分ほど行くとトンネルが現われ、その脇に「親不知観光ホテル」があった。周辺の地図をもらいにフロントに行くと、部屋が一つ空いたと言うので、無理をせず一泊することにした。この辺りでは下の海まで下りることができる。

 10分ほどかけて階段を下りると砂浜とも呼べない石だらけの小さな浜があり、かつての旅の苦しさが想像できる。波と岩で西に行くことはできなかった。かつては潮が引いている時に歩いたのだろうか、波によっては海に引き摺りこまれる恐怖が3、4時間続く、所々の洞窟以外は岩壁ばかりで逃げ場はない。長さ50メートルほどのこの浜でさえ満潮時と荒天の時は危険なのだ。

 試しに西に続く岩壁を登ってみる。フナムシの群れが一斉に逃げていく。それは我慢できたとしても、長時間岩にへばりついていられそうにない、波が来れば落とされ海に引き摺りこまれるだろう。街道と呼べるようなものでないことは明らかだった。再び階段を登り、ホテルに戻って展望風呂に入る。名前の割には小さなホテルだが見晴らしは良い。まだ明るい時間の誰もいない風呂は気持ちが良かった。

 翌日、ホテルの方に教えて頂いた国道から下って海沿いの道を行くルートを歩く。本当はここは立入禁止なのだ。危険だというのではなく、護岸工事中の工事現場のためであった。そのためかつての北陸道の面影もない。ただ海が近く横を通る車の心配がないことが長所だった。その道の終点らしいところから再び登って国道に戻ると正面に1本の松の木が見えた。小さな町並みの入口を示すかのように立っていた。これが市振の町の東端にある「海道の松」だった。かつて親不知の難所をやっとの思いで通り抜けた旅人が安堵し見上げた松の木だ。芭蕉も恐らくそのような心境でこの木の下に立ったことだろう。それから312年、すっかり元気を取り戻した私は、ようやく夏が始まったという思いでこの老木を見上げていた。

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 次回は、第32回「平家物語と昭和の花咲爺さん」(倶利伽羅峠、富山県。2002年 夏)です。



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