2017/6/27

陸軍大阪造兵廠  授業・HR

 前回6月22日のブログ「大阪城上空写真」で登場した「軍需工場」の件。

 その名も「大阪陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)」といい、1870(明治3)年に「日本陸軍の祖」である大村益次郎の提案で大阪に建設された。

 当初は、現在の「大阪城ホール」や「太陽の広場」あたりだけだったが、徐々にその敷地を拡大して、最終的には現在の「記念樹の森」「市民の森」「大阪ビジネスパーク」「JR西日本森ノ宮電車区」「大阪市営地下鉄森之宮検車場」「森ノ宮団地」まで広がった。

 軍需工場としてはアジア最大を誇り、日本陸軍のでかい大砲を製造する唯一の工場だった。また、当時としては最先端の技術水準をもっており、民間からの注文にも応じていた。

 当然、1945(昭和20)年3月13日に始まる「大阪大空襲」の標的となり、6月26日、7月14日の大空襲では大きな被害はなかったが、8月14日午後からの集中攻撃で約80%が破壊された。

 その流れ弾かもしれないが、国鉄(当時・現在はJR)京橋駅の環状線ホームを1トン爆弾4発が直撃し、その下の片町線(当時・現在は東西線)ホームに避難していた人々が犠牲となった。その正確な数は不明とされているが、おそらく700〜800人と思われる。

 また、大阪城の「二番櫓」「三番櫓」「坤櫓」「伏見櫓」「京橋口多聞櫓」が焼失したのもこの日である。

 太平洋戦争が終了後、跡地は不発弾が危険ということで20年近く空き地になっており、残存している「鉄くず」(国有財産)をゲットして換金する「アパッチ族」と呼ばれる人々のターゲットとなった。

 最初の赴任校で、昭和30年代に環状線の窓から「アパッチ族」とそれを追いかける警官の捕物帳を目撃した先輩教師がおり、その話に興味を持った自分に「これを読め」とすすめられたのが、『日本三文オペラ』(開高健)と『日本アパッチ族』(小松左京)だった。

 のちに自身も「アパッチ族」だった在日コリアンの梁石日(ヤン・ソギル)も『夜を賭けて』で、当時の警察との攻防を描いている。

 例によって「国土地理院」の上空写真から、1948(昭和23)年当時の上空写真に「大阪造兵廠」だったところを黄色で着色、白の半透明文字で現在の場所を表現してみた。

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拡大 大阪造幣廠黄色で着色.jpg

 となると「陸軍大阪造兵廠」はどんな建物だったのかと興味がわく。またまた例によって「大阪市中央図書館」の「デジタルアーカイブ」のお世話になろう。

 と思って探したら、なんと1929(昭和4)年に撮影されたこれ1枚。やはり最高の軍事機密ゆえに仕方ないかもなあ。

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 写真左下が「大手門」。写真中央に「天守閣」(昭和4年なのでまだ完成していない)のある「本丸」に通じる「桜門」がみえる。林立する煙突の数々が、「アジア最大の軍需工場」という形容が大げさでないことを証明している。

 そらこんな巨大な軍需工場がアメリカ軍の標的になって当たり前だが、そのすぐ近くにある「天守閣」が焼失や破壊もされず残っているのが奇跡に思える。

 現在、柔剣道のメッカ「修道館」(1962年=昭和37年完成)のあるあたりは、おそらく陸軍関連の建物が所狭しと並んでいるのが分かる。

 現在の地図と見比べてほしい。上の1929(昭和4)年の写真はちょうど白の矢印方向で撮影した感じかな。

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 大阪が日本を代表する工業都市として発展してきた背景には、この「大阪造兵廠」の存在を抜きに語れない。しかし、現在、その遺構は、下の写真の「京橋口付近の表門」と「守衛詰所」、その奥の「化学分析場」ぐらい。

 「京橋口付近の表門」はここにあった。

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 「大阪造兵廠」が「大阪砲兵工廠」と呼ばれていた1887(明治20)年に、明治天皇が各工場を見学した時のモニュメントか?

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 「守衛詰所」跡

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 以前ブログで紹介した「化学分析場」跡

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 しかし、「大阪造兵廠」で当時最先端をいく機械で習得した職人の技術は、今も大阪周辺の町工場で受け継がれているはずだ。



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