2017/10/14

生徒にみてほしい映画(19)  一般

 [2016年2月24日のブログ]で詳しく紹介した「海難1890」を、先日、ようやく自分も鑑賞することができた。

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 今回はその時に紹介したブログの一部を改編して、この映画の見どころなどをお伝えしたいと思う。まずは、なぜトルコのエルトゥールル号が日本にやってきたか。青字はその改編部分である。

 日露戦争(1904=明治37年)の授業で、極寒の大国・ロシアは「不凍港を求めて南へ南へ行きたがる」、いわゆるロシアの「南下政策」について話をした。そんなロシアを脅威に感じていた日本とイギリスが1902(明治35)年に日英同盟を結んだのは有名だが、同じくロシアを嫌がっていたトルコのことはあまり知られていない。

 トルコは当時オスマン帝国といいイスラム教の国。日本と同じくロシアの南下を嫌がっており、ロシアへの対抗上、日本は1887(明治30)年に皇族の小松宮夫妻をイスタンブルに派遣して友好関係を築きたいと思っていた。そのお返しとして、またイスラム教のリーダーとして東南アジアのイスラム教徒にその偉大さをみせるために、オスマン帝国は軍艦エルトゥールル号を日本に派遣した。

 『プロムナード世界史』(浜島書店)より 赤矢印がロシアの南下政策

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 1889年7月14日、イスタンブルを出港。苦難の続く航海の途中、立ち寄ったイスラム諸国で歓迎を受けつつ、11ヶ月をかけて1890年6月7日、ようやく日本の横浜に到着。一行は6月13日に皇帝の親書を明治天皇に渡し、オスマン帝国最初の親善使節団として歓迎を受けた。

 しかし、エルトゥールル号はイスタンブル出港以来、船体の消耗や乗員の疲労、資金不足による物資不足が限界に達していた。また、多くの船員がコレラとなったため、9月15日になってようやく横浜を出港した。

 このようなことから、エルトゥールル号は今後の苦難の航海に耐えることはできないと、日本は台風の季節をやり過ごすように勧告したが、オスマン帝国はその制止を振り切って出港したという。

 9月16日21時頃、台風による強風にあおられ紀伊半島南端の大島あたりの岩礁に激突、座礁したエルトゥールル号は水蒸気爆発を起こし22時30分ごろに沈没した。これにより、司令官をはじめとする600名以上の乗員が海へ投げ出された。

 以下『海難1890』のパンフレットより。

 1890年、オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が和歌山県樫野崎沖(現・串本町)で座礁・沈没。トルコ人乗組員600名以上が荒れ狂う海に投げ出される。当時としては世界最大規模の海難事故が発生した。村人たちは惜しげもなく、食糧や衣服を与え、総出で救助・手当を行った。

 そして時は流れて1985年、イラン・テヘラン。イラン・イラク戦争が激化する最中、サダム・フセイン(イラク大統領)による、イラン上空無差別攻撃が宣言される。タイムリミットが迫る中、日本からの救援隊は来ず、テヘランに閉じ込められた在留日本人たち。彼らに救いの手を差し伸べたのは、トルコだった。

 なぜトルコが助けてくれるのか? そこには、95年前のあの事故から生まれた”人を想う心”があった。

 1890年「エルトゥールル号海難事故」、1985年「テヘラン邦人救出劇」。2つの真実のドラマが、日本・トルコ友好125周年という節目の年に、両国の支援のもと遂にビッグプロジェクトの映画となって誕生!

 日本とトルコ、9000kmも離れた両国が政治、経済、宗教の違い・・・全てを超えて生み出した友情よ絆。世界に放つ”希望”の物語が今冬スクリーンに登場する。


 「海難」は船乗りにはつきもの。その「海難」を目の前にした貧しき漁民たちは、自分たちの生活よりも「船乗りの人を想う心」を最優先させ、エルトゥールル号に乗船したトルコ人600人余りを救助するシーンは本当に胸を打つ。

 貧しき家の戸板をタンカ代わりに海岸沿いの足場の悪い岩場をものともせず、何度も何度も往復してトルコ人を医者の田村(内野聖陽)のもとに運ぶ。

 現在、救急病院でも導入されている「トリアージ」を実行したり、心臓マッサージや凍える患者を温めるシーンもあり、将来看護師を目指している生徒も参考になるだろう。

 岩場に座礁したエルトゥールル号がCGで再現されており、当時の村人たちは初めて見る異国の巨船を前にしてさぞかし驚愕したと思われる。そして明らかに異なる顔をしたトルコ人を、自らの食事を減らしてまで世話をする。

 そんなときに両者の「潤滑油」となったのが無邪気な子供たちで、トルコ人に近づき「おっきいなあ」とか声をかけたり、食料を分け合ったりする。

 また、当時「明治唱歌」として子供たちが小学校で歌ったと思われる『故郷の空』を、トルコ人乗組員のトランペット演奏でともに歌うシーンなどは、歌の無限の力を分からせてくれる。

 ちなみに『故郷の空』は『蛍の光』と同じくスコットランド民謡で、そのメロディーは1970年代に「ザ・ドリフターズ」が歌った『誰かさんと誰かさん』と言った方が分かりやすいだろう。

 座礁しているエルトゥールル号を見下ろす丘で500人以上の死者を丁重に葬るシーンを見て、この一連のアクシデントで何日も漁に出ることができなかった漁民たちのダメージを想像すると、当時の日本人漁民が抱いていた「信仰心」や「船乗りの人を想う心」を思うのである。

 「夕空晴れて秋風吹き 月影落ちて鈴虫鳴く 思へば遠し故郷の空 ああ、我が父母いかにおはす」

 『故郷の空』を歌う漁民に見送られ、涙を浮かべるトルコ兵が沖合に停泊する船に向かうシーンから、およそ95年後。

 隣国イラクの攻撃が始まり混乱を極めるイランの首都テヘラン。そこに住む日本人300人余りの緊急脱出に手を貸してくれたのが、トルコの人々であった。

 テヘラン空港に飛来した2機のトルコ機には、搭乗を希望するトルコ人が殺到している。テヘラン脱出の希望のない日本人を乗せてやろうという雰囲気は皆無だったが、テヘランのトルコ大使館に勤める男性の演説で人々の心は変化を見せる。

 このシーンを見て、小さな頃に読んだ教科書の内容や、自分自身もその任を背負っている学校教育の影響力の強さを痛感した。

 大使館の男性が「祖先たちは異国の地で絶望に陥った際に救ってもらえた」「今、日本人を救えるのはあなたたちだけだ」と告げた時、多くのその場にいたトルコ人が「救ってもらえた」の意味が、小さな頃に教科書に掲載されていた「エルトゥールル号事件」のことをさすことを知っていたからこそ、「なるほど、そやな」「今こそ恩返しをするときかもしれんなあ」と冷静に思い直すことができた。

 もし「エルトゥールル号事件」のことが教科書に掲載されていなかったら、搭乗を希望するトルコ人たちは冷静に思い直すことはなかったはずだ。


 国と国と友好関係は、政府首脳同士の交流だけでなく、名もなき一般ピープル同士の草の根の交流も大切であることをこの事件は教えてくれる。

 昨今のなにかと穏やかでない近隣諸国との関係も、長い歴史の中で友好関係であった時代もあり、そして名もなき一般ピープル同士の温かい関係などそこらじゅうにあるはず。そんなプラス面にスポットライトを当ててもいいのではないかと思う。



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