2021/9/1

『OKU NO HOSOMICHI』 第37回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で「STARWARS」)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第37回「天下分け目の関ケ原 もし西軍が勝っていたなら」
(滋賀・岐阜県2006年夏)
  国語科 副島勇夫


奥の細道の旅も最終盤だ。滋賀県、琵琶湖の東から内陸を東に向かって歩き、「天下分け目の関ケ原」で有名な岐阜県関ケ原を目指す。はじめに「関ケ原の戦い」について整理しておこう。

戦国時代後期の1600年、美濃の関ヶ原で、徳川家康を大将とする「東軍」と、石田三成を中心とする反徳川勢力の「西軍」とが行なった合戦だ。織田信長が天下統一目前で、本能寺の変が起こり、自害する。「天下統一」と言っても誤解してはいけない。日本統一ではないのである。京都を中心とした本州の中央を広く収めるぐらいのものである。それだけの範囲を押さえれば、歯向かう武将はほぼいない。そんな感じである。京都にいる天皇を味方につけることも意味を持つ。しかし、貴族の時代ではなく、戦国武将にとっては天皇も政治利用の道具であり、また天皇側も統治者を利用する。明智光秀が信長を討った理由も単に天下統一ではなく、様々な黒幕説がある。
信長の死後、明智光秀を討った豊臣秀吉。光秀の想像を超える速さで中国地方から引き返すのである。おそらく、秀吉は予感があったのかとも思われる。知っていたという説さえある。しかし、豊臣の栄華は長続きしない、秀吉の死後、その子秀頼はまだ若く、石田三成や徳川家康が支えていた。しかし、戦国武将、そんな野心のない者は少ない。豊臣を守るという名のもと、石田・徳川両者が覇権争いとなる。そして・・・

石田三成ら西軍は総勢10万、徳川家康ら東軍は総勢7万が関ヶ原に陣を構えた。先に石田勢が陣を構えたことから、あとから関ヶ原に到着した徳川勢は、不利な配置となっていた。軍勢だけでも東軍は不利のはずである。濃霧の中で対峙していたが、霧が晴れて来た頃、福島正則の部隊が、宇喜多秀家隊に鉄砲を撃ち掛けたことで火蓋が切られる。山と山に挟まれ、武将たちの陣地は山上にある。決戦地は20万人が戦うには狭く長い草地である。


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 西軍は多くの武将が様子見で戦に参加せず、戦闘していたのは3万程度であったが、地形的有利が働いて、東軍は少し押されていた。しかし、東軍の黒田長政らは、事前に西軍の小早川秀秋らに、戦いとなった際には、東軍に寝返るよう合戦が始まるだいぶ前から調略(極秘に味方に)していた。
 このまま西軍に味方しようか、約束通り東軍に寝返るか、決め兼ねていた小早川秀秋は、関ヶ原合戦に参加せず見守る。そんな姿にしびれを切らした徳川家康は、昼過ぎになって小早川秀秋の陣に目がけて大砲を撃ち掛けたと言われる。「徳川家康が怒っている」として、小早川秀秋は西軍を裏切って隣の大谷吉継らの陣に突撃を開始。そして、同じく家康の調略を受けていた脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保、吉川広家らも西軍を裏切って、東軍として戦いに参加した。
 
このように、合戦が始まる前には西軍が有利であったが、徳川勢の調略が功を奏して寝返りや、動かない大名が続出する結果となる。こうして、西軍は総崩れとなり、双方合わせて6000〜8000人の戦死者を出した関ヶ原の戦いは、したたかな、徳川家康勢の大勝利となった。関西にアンチ家康が多いのはこういうところだ。したたか、戦巧者、知略にたけたと言えばいいが、卑怯だ。狡猾だ。嫌いだ。若い秀頼を支えると見せて、着々と時期を待つ。われらが太閤秀吉さんの大坂城を、堀を埋め、弱体化させ、ついには潰してしまう。そして、その上に新たな大坂城を建造する。ちなみに豊臣大坂城の残骸の上に徳川大坂城が建てられ、戦争で焼失したのち現在の大阪城が建っているのである。

したたかで、浪速の太閤はんを踏みにじった家康。その家康の徳川幕府。江戸、東京。東京は敵だ。巨人も敵だと阪神ファンは、この「大坂DNA」を受け継ぎし者なのである。もちろん、東京から見れば大阪はライバルでもない。一地方大都市である。巨人ファンも、阪神をライバルとはあまりおもっていないだろう。そこが、そこが、声を大にして言う、我々阪神ファンにとって悔しい。相手にもされていない感。だからこそ、万城目学の「プリンセス・トヨトミ」の「大坂国」に共感するのだ。「奥の細道」も「関ケ原の戦い」もどこかに飛んでしまった。

総勢20万の天下分け目の大決戦になるはずが、たった6時間で終わってしまう。家康のしたたかさに「石田軍」は総崩れとなるのである。ここで大勢は決した。後の「大坂冬の陣」「夏の陣」で完全滅亡する。ここに戦国の世は終わるのである。
もし、この戦いで石田三成が勝ち、家康が戦死。徳川家が取り潰されていたならどうなっただろうか?奈良・平安と近畿が中心であった。京都か大阪が首都なのだろうか?関西人にとっては、それも1つの夢かもしれないが、現実的には、そこまでのカリスマ性が三成にはなかった。むしろ嫌われていたため、戦国の混乱が続いたのだと思う。カリスマがしたたかに長期安定政権を作った場所、そこが日本国の中心になったのだろう。それは仙台や長野、愛知、新潟、福岡であったかも知れない。もちろん、大坂に現れたならば、現在、大阪は首都かもしれない。でも、人口は今より多く、ごちゃごちゃとした
 超大都会になっていただろう。芸能人、有名人に会えるチャンスは多いと思うが。

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  その関ケ原を目指して歩いていた。関ケ原は山と山に挟まれた場所である。冬は豪雪で現在でもJR 
 が運航停止になる。夏も雨が多い。天候が不安定なのだ。この日も曇りである。ここ何年かの奥の細道
の旅は天候に恵まれない。歩き始めたころと日本の夏は変わってきていることを感じる。四季の変わり
目が曖昧となり、夏が長くなったようだ。振り返ると、福井県の方は黒い雲である。雨は迫って来るだろう。南側は晴れている。国道を歩いているが、民家が減っていく。コンビニもない。10時半、とうとう本降り。歩道がなくなり、道路の白線の内側30センチの幅を歩く。トラックが水を跳ね上げる。
雨の中、7月末で蝉はヒグラシ、そして鶯の鳴き声まで聞こえてくる。季節も天気も、すべてがアンバランスだ。滋賀県米原町からこの旅最後の15番目の都道府県、岐阜関ケ原町に入る。

 雨が止むが、この1時間ほど民家を見ない。車以外に人も見ない。おそらく直距離トラック用の食堂で昼食。そこからすぐに、関ケ原古戦場のエリアに入った。意外だった。目の前に広がるなだらかな斜面と草地。それを取り囲む丘や低山。それらが各武将の陣の跡だった。東西の合流地。見下ろせる陣取り。戦いは平地。理にはかなっている。民家もあるが、古戦場の趣は残っている。ここに立つと見降ろされている感じがあるのだ。三成の陣の跡が残る丘に登る。敵が見える。情勢がわかるのだ。歴史マニアのおじさんに話しかけられ、20分ほど説明を聞く。奥の細道を歩いていることを伝えると握手をしてきて去って行かれた。古戦場には往時をしのぶのぼりが立てられ、曇り空に湿った風を受け、わずかにはためいていた。

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 この狭い場所に20万の兵が、功名の野心や、裏切りやお家の名誉をかけ戦った。豊臣を継ぐという名の下で、家康は自分の国を作ろうとしたたかに計画を練った。今はのどかな田舎町である。当時も何もない場所だっただろう。おそらく駅で借りられるレンタサイクルに乗った親子連れが、笑いながら競争している。あちこちに武将が戦死した場所がある。今から400年ちょっと昔のことである。

2006年の旅も終盤。ここから、「奥の細道」結びの地岐阜県大垣市までは、あと17キロ。この日は大垣に入ったあたりで泊まろう。とうとう、20年にわたる旅も終わる。私は、再び降り出した雨の中、大垣を目指して歩き出した。

次回は第38回最終回「約束の地 20年の旅の果てに」(岐阜県大垣市2006年夏)です。






 



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