今日は久方ぶりにTAMAさんの『合衆国の片隅で』から
この記事にトラックバックさせて頂いております。
+++
「精神科を受診してみたら」と夫に言われたのは、
去年の夏の終わり、先セメが始まった頃だった。
何故なら、ほぼ毎日の様に「英語を話すのが怖いんだ」と
泣いていたからだ。
どうしてそんなに『英語を話す』というのが怖かったかと言うと、
やっぱりユタでの重なってしまった経験のせいだと、
自分の性質をどう鑑みても、そういう結論に至ってしまう。
ユタの人達、と言ってしまうと語弊があるのだが、
ユタのソルトレイクシティ以外に住んでいる人達というのは、
きっと私が住んでいた4年前も今もそれ程変わっているとは
思わない程に保守的だ。
とにかく、英語を話せないと人間じゃないみたいに扱う人が
多くてとても困った。
困ったどころか、『アメリカ人はみんなそうなんだ』という
見解に陥り(他を全く知らないですからね)、
カリフォルニアに来ても日本人も含めてどの人種に対しても
人間不信に陥る程、自分自身の人間性を病んだ。
実際、ユタで大学のクラスを取っている時も、
「訛がきつくて何言ってるのかわからない」とか
peer editingの時にも「あんたみたいな英語に言われたくない」とか
それはもう、今考えたら「どんだけ失礼やねん」と思う様な事を
言われた事も何度かある。
大学は若い兄ちゃん、姉ちゃん達の集まりだから仕方ないとしても、
教会で私と同じ年以上のおばはん達からも、
私がそこにいるのに「あの人、英語わからないんでしょう?」とか
「きっと何も理解できないのよね」とかコソコソと、しかし、
聞こえる様に言われた事もある。さすがに切れて、
「それ位はわかるアルのよっ!」と言い放ち、
白人より他の世界を知らないおばはん達の度肝を
抜いて差し上げましたけど。
そういう経験は、カリフォルニアに来てからも、
私をネイティブ達から遠ざける良い言い訳にしていたが、
学校に行き始めて足掛け二年に達したその先セメ、
それはもうもの凄い配慮に配慮を重ねて避けるだけ避け続けていた
『話す』という行為に、「書くクラスだから大丈夫だろう」と
高を括っていた英語クラスからambushされてしまった。
その上、教授はユタ時代を彷彿させるかの様に、最初のクラスで
「僕はESL学生の教え手ではなく、ネイティブのだから」と言った。
ユタと違っていたのは、教授がユタの白人のように、
自分が何か偉い者のようではなく、困った様な顔で言った事だけ
である。しかし、その困った様な顔につけ込んで、
私はそのクラスに泣きながらも所属し続けたのだが。
だが、その英語を話す、という恐怖症のような物を
取り払ってくれたのが、皮肉な事にネイティブ達だった。
うちの掛かり付けの日系アメリカ人の歯医者は、
「そりゃずっと日本語ばかりしゃべってんだから変な英語
だろうが、ケケケ。でも、通じないって訳じゃないんだから、
話せば良いんだよ。変な英語とか軸がずれてる返答なんて
アメリカ人は絶対に気にしないんだから」と挫きながらも
励ましてくれたし、
同じクラスのネイティブ達が何よりも
「話せない?話せてるじゃん。それに書けるだろうが」と
言った一言が私を助けたのではないだろうか。
子供達は否応なく、義務教育という言葉の元、
毎日何時間も英語環境の中に身を置いて英語を親よりは
はるかに早くマスターするけれど、
しかし、よく日本の人達が言う様に、
「子供は早いから」では決して無い、と断言させてもらう。
ただ、何が何でもわかろうがわかるまいがそこに行って、
そこで参加せねばならず、私達親の様に、
「アダルト・スクールがあるけど、行く?行かない?」という
選択肢は皆無な訳で、故に英語環境に実を置く時間が
必然的に多くなり、そうやってズルける選択肢もある親達より
はるかに早く英語をマスターするだけの事なのだ。
それを考えると、大人だって一緒な訳で、
やっぱり「英語で楽になりたい」と思えば、そういう環境に
実を置くしかないのだ。
例えば、読む事にしても、私は今、そういう環境に
身を置いているから、という理由で、日本語よりも圧倒的に
英語を読む機会の方が多い。日本語は読まない日はあっても、
英語を読まない日はほとんどない。
すると、どういう事が起きたかと言うと、
どんどん英語を読む、という所作が楽になって来たのだ。
長たらしい難解な文章だと、何度も戻って確かめるように
読まねばならなかったのが、ほぼ難解だと思える文章が消滅し、
日本語に準ずる程に楽になった。
ならば、きっと話す事も同じなんじゃないかな?
「そうアルよ」「そうアル思うよ」「そうアルか!?」を
繰り返し使う事によって、少しずつ少しずつ、それが
「そうなんですよ」「そう思います」「そうなんですか?」に
変化して行くんじゃないかな?
よく大学とか学校に行ってもそんなに話す事には役立たない、と
言う方を何年も前からお見かけするけれど、
それは私達自身が決める事なんじゃないかな?
そう思ってしまえばそれまでだし、
そうじゃないと思えば、そうじゃないのだと私は思っている。
大学はもちろん、話し方教室ではない。
教授達は教養溢れる方達で、私のようなグズグズ英語を
難なく汲み取って下さる。
だが、忘れては行けない、大学で話す相手は教授ではなく、
圧倒的にクラスメイトが多い、というのが事実だ。
彼らは本当に情け容赦なく分ってくれない。
それに、話し方教室ではないから、読むし、書く。
書く事を構築するのと話す内容を考える脳みそは、
私は同じ所を使うのだと思っている。それを表現する時の脳みそは
違う所を使うから、苦労するけれど、
英語そのもので物を考える練習になる。
そして、話したければ、どんどんクラスで発言すれば良い。
間違った言い方をしても、ほとんどの教授は
「なるほど、そうだね、こういう事だね」と肯定しつつ、
さりげなく正しい言い方を教えてくれる。
例えば、私がバイオロジーで落葉の事を「Drop leaves」と
言ったのを「Yes! loose leaves」と直してくれたように。
もう、二度と忘れないよ、そういうのは。
そういう事の積み重ねで、正しい英語に近づいて行くし、
楽な状況に近づいて行くのじゃないかな。
だから、残念だけど、英語習得に近道は一切ない。
ようするに、良くなりたい、と思えば悪戦苦闘とは
お友達になるより仕方がない。
落ち込んだり、泣いたり、「もう死んで、自分」と言いながら家で
身悶えする事と良いお友達になるより仕方がない。
その内に、日常化して悪戦苦闘が普通になるしね。
それに、特に、私の様に『なんちゃってバイリンガル』達の母親は、
家で100%英語には絶対に出来ない。
すると、どこかでそういう苦労を自分に強いる場面に属して
頑張るしかないんだな、と思うのだ。
私なんか自慢じゃないけど、ESLのクラスでも
「アワワワワワワ」となっている。
でも、いいの。
先ずは自分の「アワワワワワ」加減に慣れる事が大切なのよ。
私の場合は先ず、英会話恐怖症の克服から始まった訳で、
それをほぼ90%程克服した今からが本当の勝負なのだから。
取り合えず、
「アメリカ(他の英語圏の国)に行けば、英語はなんとかなる」と
思っている方がいらしたら、それは間違いだ。
「英語圏の国に来ても、苦労と恥さらし無しには、
一切、なんともなりませんっ!」が本当です。
英語習得は茨の道なり〜。
でも、やりがいの道なり〜。
そして、きっとやり遂げた、と思える事も一生ないかもしれない、
そういう道かもしれない。
「楽になるのかしら」と思うのではなく、
「楽になりたい」と思うしかない道なのではないかしら。
精神論かもしれないが、私は
「いつか必ずペラペラになっている」と思っている。
そういう自分を英作文と英読書と英会話の間に想像しては、
ウフフとなっている。
そして、私にとって英語との格闘は、ノウハウだけではあまりにも
ドライで、この精神論無しにはありえない、存続しない事でもある。
お陰で、どんなに泣いても、どんなに「死ね!」と自分を呪っても、
先に小さな光が見えているのだから。

0