2012/5/29
宜湾朝保(ぎわんちょうほ)生誕の家が、事務所 村のあちこち村おこし
沖縄では、ジャスミン茶がペットボトルでよく飲まれています。
沖縄のジャスミン茶(さんぴん茶)は、ウーロン茶やコカ・コーラみたいに、すでに固有名詞から普通名詞に昇格した名前のようです。
ジャスミン茶は、中国でも、茉莉花茶(モーリファチャ)と呼ばれて親しまれていますから、これもシーザーなどと同じように中国文化のひとつなのかもしれません。
『ハイサイ さんぴん茶』という商品名です。原材料が沖縄産であるが故にウーロン茶よりも好まれているのかもしれません。
食文化の違いは、トーガンやヘチマも味噌汁の具にしてよく食べること。夏バテしない工夫なのでしょうか?
いまや本土ではNHKの『チュラさん』以来、ゴーヤは省エネの日陰づくりと、夏バテ防止として、誰知らぬものもいない文化となりました。
温暖化が進んでいくなら、ヘチマも健康食として食文化の中に取り入れられていくのかもしれません。
日本全国で唯一、夏でも石焼き芋が売られている沖縄だと、最近テレビで紹介されたらしい。
暑い時に熱いものをなぜ食べるかと言いますが、意外と沖縄は本土よりも夏は湿度は高くなくて、体感的にそれほど暑くないということと関係がありそうです。
風がさわやかなところは、行ったことがないけれど、ハワイの風土に近い感じなのかもしれません。
『本土の焼き芋屋さんは、夏の間は何をやってるんですか?』
と逆質問をされましたが、そもそも買ってくれる人がいなければ商売が成り立つ訳がありません。
首里城公園の入り口近くに『ブルーシールアイスクリーム』という珍しいものを売っています。
これは、たまたま数ヶ月前に『昔のタレント、今はどうしてる?』みたいな番組を見ていたら、この沖縄のブルーシールアイスクリームが登場していました。
東京に進出している専門店の経営者は、ある有名な女性タレントだったことがあって、その夫は店の中でもマスクをはずさない覆面プロレスラーでした。
看板には、『アメリカ生まれの、沖縄育ち』というキャッチフレーズが書かれていました。確かに青い海の色をしたアイスクリームには興味をそそられる珍しさがあります。
沖縄の人々が買って食べてくれたからこそ『育って』東京に進出できたんですね。
実は一昨年九州公民館大会に来た時も、この首里城公園前のこの店で食べてはいるのですが、もう一度食べたくなりました…
渡久地(とぐち)修候補の事務所は、首里城の近くにあります。
その事務所横には、宜湾朝保(ぎわんちょうほ)という幕末・明治時代の、琉球処分を受けた時代に、琉球国の『三司官』という、いわば大臣にあたる地位にいた人の生家だと書いた標柱と説明が表示されています。
大名町には宜湾朝保の墓もありますから、琉球の歴史にとっては欠かすことのできない人物に違いありません。
『テンペスト』に出てくる、主人公・孫寧温の兄【朝勲】にあたるような気がします。
モノレールの駅に掲げれた観光案内図を見ると、もうひとり朝薫という人の生家も表示されていますので、両者を統合して作中人物が創造されたのでしょうか?
琉球の歴史に詳しい女性から聞いたところでは、事務所前の道は、軽自動車がやっとすれ違うくらい狭いけれど、かつて琉球の王様が浦添に向かう時に通った大事な幹線道なんだそうです。
そう聞かされたら、急に道の曲がり具合に歴史の重みが、染み込んでいるように感じられてきました。
宜湾朝保は、『琉球処分』を日本政府からされてしまった時の、外交責任者だった訳です。
琉球国という独立国の名目だった立場が、日本において【廃藩置県】が行われて藩から都道府県に移行した後なのに、【琉球藩王】という称号が与えられたことに喜んで帰ってきたのです。ある程度の自治権が与えられたのではないかと受け止めたのでしょうか?
しかしそれは、その後廃藩置県が琉球にも行われてしまったことを考え合わせたら、自治権どころか中央集権に統合される【琉球処分】が行われる前段だったことになりはしないかと。
日本政府の意図を見抜けなかったと責められて、晩年は失意のうちに過ごしたらしい人です。
歌人としても知られているとか…
そんないわくのある生家に、事務所を構えているのが『日本共産党』だということには、なんだか歴史的な意味が隠されていそうです。
米軍基地撤去と安保廃棄を求める悲願が、かつての琉球王国のあり方に通じるところがあるからです。
決して偶然ではない深い縁が感じられてなりません。
歴史は男のことしか残っていないけれど、実は女性も武器をとって戦っていた(?)んだと教えてもらいました。
そう言えば、沖縄で盛んな空手にも、女性向きの独特の【形】があるらしいことが、地元紙の報じるスポーツ欄でわかりました。
【沖縄タイムス】には、かつてアメリカの軍政に対してとことん闘った瀬長亀次郎さんのことについての連載が出ていました。
その次女が、投獄されていた瀬長亀次郎さんに対して、刑務所(?)の中が見える丘の上から手を振ったことが、暴動の発端になったとして【手信号事件】が報じられたなどという回想が語られていました。
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沖縄のジャスミン茶(さんぴん茶)は、ウーロン茶やコカ・コーラみたいに、すでに固有名詞から普通名詞に昇格した名前のようです。
ジャスミン茶は、中国でも、茉莉花茶(モーリファチャ)と呼ばれて親しまれていますから、これもシーザーなどと同じように中国文化のひとつなのかもしれません。
『ハイサイ さんぴん茶』という商品名です。原材料が沖縄産であるが故にウーロン茶よりも好まれているのかもしれません。
食文化の違いは、トーガンやヘチマも味噌汁の具にしてよく食べること。夏バテしない工夫なのでしょうか?
いまや本土ではNHKの『チュラさん』以来、ゴーヤは省エネの日陰づくりと、夏バテ防止として、誰知らぬものもいない文化となりました。
温暖化が進んでいくなら、ヘチマも健康食として食文化の中に取り入れられていくのかもしれません。
日本全国で唯一、夏でも石焼き芋が売られている沖縄だと、最近テレビで紹介されたらしい。
暑い時に熱いものをなぜ食べるかと言いますが、意外と沖縄は本土よりも夏は湿度は高くなくて、体感的にそれほど暑くないということと関係がありそうです。
風がさわやかなところは、行ったことがないけれど、ハワイの風土に近い感じなのかもしれません。
『本土の焼き芋屋さんは、夏の間は何をやってるんですか?』
と逆質問をされましたが、そもそも買ってくれる人がいなければ商売が成り立つ訳がありません。
首里城公園の入り口近くに『ブルーシールアイスクリーム』という珍しいものを売っています。
これは、たまたま数ヶ月前に『昔のタレント、今はどうしてる?』みたいな番組を見ていたら、この沖縄のブルーシールアイスクリームが登場していました。
東京に進出している専門店の経営者は、ある有名な女性タレントだったことがあって、その夫は店の中でもマスクをはずさない覆面プロレスラーでした。
看板には、『アメリカ生まれの、沖縄育ち』というキャッチフレーズが書かれていました。確かに青い海の色をしたアイスクリームには興味をそそられる珍しさがあります。
沖縄の人々が買って食べてくれたからこそ『育って』東京に進出できたんですね。
実は一昨年九州公民館大会に来た時も、この首里城公園前のこの店で食べてはいるのですが、もう一度食べたくなりました…
渡久地(とぐち)修候補の事務所は、首里城の近くにあります。
その事務所横には、宜湾朝保(ぎわんちょうほ)という幕末・明治時代の、琉球処分を受けた時代に、琉球国の『三司官』という、いわば大臣にあたる地位にいた人の生家だと書いた標柱と説明が表示されています。
大名町には宜湾朝保の墓もありますから、琉球の歴史にとっては欠かすことのできない人物に違いありません。
『テンペスト』に出てくる、主人公・孫寧温の兄【朝勲】にあたるような気がします。
モノレールの駅に掲げれた観光案内図を見ると、もうひとり朝薫という人の生家も表示されていますので、両者を統合して作中人物が創造されたのでしょうか?
琉球の歴史に詳しい女性から聞いたところでは、事務所前の道は、軽自動車がやっとすれ違うくらい狭いけれど、かつて琉球の王様が浦添に向かう時に通った大事な幹線道なんだそうです。
そう聞かされたら、急に道の曲がり具合に歴史の重みが、染み込んでいるように感じられてきました。
宜湾朝保は、『琉球処分』を日本政府からされてしまった時の、外交責任者だった訳です。
琉球国という独立国の名目だった立場が、日本において【廃藩置県】が行われて藩から都道府県に移行した後なのに、【琉球藩王】という称号が与えられたことに喜んで帰ってきたのです。ある程度の自治権が与えられたのではないかと受け止めたのでしょうか?
しかしそれは、その後廃藩置県が琉球にも行われてしまったことを考え合わせたら、自治権どころか中央集権に統合される【琉球処分】が行われる前段だったことになりはしないかと。
日本政府の意図を見抜けなかったと責められて、晩年は失意のうちに過ごしたらしい人です。
歌人としても知られているとか…
そんないわくのある生家に、事務所を構えているのが『日本共産党』だということには、なんだか歴史的な意味が隠されていそうです。
米軍基地撤去と安保廃棄を求める悲願が、かつての琉球王国のあり方に通じるところがあるからです。
決して偶然ではない深い縁が感じられてなりません。
歴史は男のことしか残っていないけれど、実は女性も武器をとって戦っていた(?)んだと教えてもらいました。
そう言えば、沖縄で盛んな空手にも、女性向きの独特の【形】があるらしいことが、地元紙の報じるスポーツ欄でわかりました。
【沖縄タイムス】には、かつてアメリカの軍政に対してとことん闘った瀬長亀次郎さんのことについての連載が出ていました。
その次女が、投獄されていた瀬長亀次郎さんに対して、刑務所(?)の中が見える丘の上から手を振ったことが、暴動の発端になったとして【手信号事件】が報じられたなどという回想が語られていました。
